いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

小説

テルアビブ、1998年 (1)

小埜陽介は辛い夢から目覚めた。薄まった朝陽が、カーテンを閉め忘れた南側の窓から、掛け布団の上に細く差し込んでいるのが見えた。時計の針は五時半を指していた。夢の中身はこうだ――妻、美薗の用意した粉末状の薬物を、陽介と、みんなから「おじいさん」…

- テルアビブ、1998年 (2)

「で、いつ出発なんですか?」 「今週の土曜」 「え? 今日、木曜日っすよ」 「急な話なんだけど、って言わなかったっけか?」 「聞いてましたけど……明後日にイスラエルに行けってことですか? びっくりですよそれはもう」 その実陽介は、驚きはしなかった。…

- テルアビブ、1998年 (3)

陽介は一時五分過ぎを指している空港の時計を見ながら、自宅の腕時計の時刻を合わせた。紺色のヒュンダイに乗せられた陽介は、「紙に書かれていた他の二つの名前の持ち主は?」とタミラに訊ねた。 「二人とも昨夜テルアビブに着いています。あなたが空港に着…

- テルアビブ、1998年 (4)

三人の午後の予定は、夜六時からテルアビブの旧市街、オールド・ジャファのレストランでの会食だけだった。イスラエル商工会議所所長のラビ・イツハク・カハネ氏の招待だった。タミラはレストランの場所と連絡先を書いた紙を永館に手渡すと、脈略もなく、自…

- テルアビブ、1998年 (5)

ホテルに着いたのは、十時前だった。ロビーを歩きながら、陽介の脚は、ゴラン高原産の軽やかな白ワインの酔いが回ってもつれ、躓いた。永館も美由も、それが面白くてたまらない冗談のように笑い始めた。 一人だけ残っていたフロント係の若い、髪を短く刈った…

- テルアビブ、1998年 (6)

翌朝五時を回るころ、陽介はホテル・ルネサンスのロビーで籐椅子から立ち上がって出発しかかったときに、エレベーターから顔の前で手を合わせながら歩いてくる美由の姿を見た。 「ごめんなさーい。やっぱり無理って思ったんだけど、来ちゃった……すごく待ちま…

- テルアビブ、1998年 (7)

陽介、美由、永館を乗せたマイクロバスは、午前九時前にホテル前を出発して、ハイエメクに向かった。バスに乗っていたのは陽介たちと運転手のほか、四谷商事の中近東・北アフリカ統括部長の水沼一郎、近江製鉄の加藤康幸、そして駐日経済公使のヨシュアの、…

- テルアビブ、1998年 (8)

「陽介、電話だよ」 美薗に起こされた陽介は、立って受話器をとりながら北側の窓を一瞥して、裏の自動車整備工場に差す光の様子から、すでに正午を過ぎていることを感じた。 電話は警察からだった。警察官は、村島と名乗った。 「吉村美由さんと最後に会われ…