いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

- テルアビブ、1998年 (8)


「陽介、電話だよ」
 美薗に起こされた陽介は、立って受話器をとりながら北側の窓を一瞥して、裏の自動車整備工場に差す光の様子から、すでに正午を過ぎていることを感じた。
 電話は警察からだった。警察官は、村島と名乗った。
「吉村美由さんと最後に会われたのはいつですか?」
 村島の単刀直入な質問に、陽介は背骨のあたりを小突かれるほどの衝撃を受けた。しかし、それはある意味杞憂だった。村島が言うには、美由がイスラエルから帰っていないのだという。陽介がイスラエルから戻って、もう一週間が経とうとしていた。
「出発の前日なので……九月二十五日の夜だったと思います」
「お二人で?」
「いえ。永館さんと三人でした」
「永館さん?」
「永館永航さんです。個人でラジオ局を運営されている……。永館さんには連絡を取ってないんすか?」
「吉村さんと最後に会われたのは、どこでですか」
「永館さんと三人で、テルアビブのクラブに行きました。アリエルってヤツに誘われて」
「アリエル?」
「ええっと、それを説明しだすと長くなるんだけど」
「わかる範囲でお教えいただけますか」
「駐日経済担当公使のヨシュア・ベン・ダビッド氏の下で働いてるらしい、タミラという女性がいまして……タミラ・レビボ。彼女の息子がアリエルです」
ヨシュア……? タミラ? ちょっと……よくわからないんですがね」
ヨシュアには、話を聞いていないんですか? イスラエル大使館に電話すれば連絡とれますよ。今回のツアーを仕切ってた人です」
「なるほど。連絡してみましょう」
「吉村さんはそのとき……滞在を伸ばすと言っていましたよ。永館さんもそれは知ってます。もちろん、ヨシュアも……」
「その店では、なにをなさっていたのですか?」
「なにって……ワインを飲んで、少し踊っておしゃべりをして……それだけです」
 さすがに、アリエルたちとジョイントを吸っていたとは言えなかった。
「そこからホテルに帰られたのはいつですか」
「そんなに遅くはなかったですよ。十二時前だったはずです。ただ……」
「ただ?」
「ホテルに帰ったのは、永館さんと俺だけでした」
「吉村さんはどうなさったんです?」
「彼女は……アリエルと、彼の友達たちと意気投合してそのまま残るって言って」
「残してきたわけですか、その店に」
 村島の声には、明らかに非難の調子が含まれていた。
「まぁ、そういうことになります。アリエルの母親のタミラは僕たちも知り合いだったし、あとはよろしく、って感じだったんですよ」
 ワインを一人で一瓶空けて、さらにマリファナでハイになり、アリエルたちと下卑たジョークを言い合って、スツールの上からカウンターの下の暗闇に向かって笑い崩れていた美由の姿を、陽介は思い出していた。
 村島は、何かあったらまた連絡させていただきますとだけ言い残して、電話を切った。陽介は、口臭のような不快な臭いの漂う受話器を置きながら、近いうちに自分にも嫌疑がかかるかもしれないと思った。しかしそれっきり、警察から連絡はなかった。

 イスラエル取材の成果は結局、モノクロ二ページのレポート記事になっただけだった。五年後、出版不況のあおりを受けたことを表向きの理由として、発行部数3万部の月刊ビジネス情報誌JBNDは廃刊された。実際には、著しい売り上げ減、それから編集長の使い込みと、廃刊となる理由には事欠かなかった。同時に、陽介は会社を辞めた。
 それからは、単発で依頼が来るニュース記事の執筆や、広告がらみのページの、スペースを埋めるためだけの原稿を書く以外は、夕方まで布団にくるまり、夜になると新宿か池袋に出て、缶ビールを飲みながら街中を徘徊して過ごした。美薗は、派遣の仕事を始め、貯金の切り崩しと合わせてどうにか家賃と食費を払っていた。
 陽介が仕事を辞めてちょうど二月目の夏の夜、美薗は陽介に初めて殴られた。手のひらで耳から顎にかけて叩かれ、ほとんど宙を飛ぶように台所の床に倒れた。美薗が泣かないのを見ると、陽介は横倒しになっている美薗のわき腹を踏みつけた。美薗は陽介の足首のあたりに噛み付いたが、陽介は動じずに美薗の肩口を蹴った。美薗が声を立てずに泣き始めたのを見届けて、陽介は扉を開けて飛び出し、目白通り沿いを後ろ歩きしながら、ノロノロと江古田の駅に向かった。陽介が帰る前に、美薗は家を出た。

 美薗が出て行った明くる日の夜明け前、陽介は、靖国通り沿いの映画館のとなりにある、ビルの六階のマンガ喫茶の受付で、延長料金の精算をしていた。陽介は、若くて礼儀正しい金髪の店員が伝票に目を通し、レジを打っている間にも、いま奥の階段を降りて近づいてくるのが女に違いないと、意識のどこかで感じていた。性的な飢えを感じているときは、女の微かな気配にさえも敏感になるものだ。
 千円札をカウンターに置きながら、陽介の神経は階段のほうに吸い込まれた。階段は、プラスチックのパーティションで蜂の巣のように仕切られたブースの間に突き通された廊下につながっていた。陽介の立っていた場所からほんの二、三メートル離れただけのもうひとつのカウンターに女がたどりついた瞬間、耐え切れずに陽介は右に首をひねった。女は、櫛の入っていないようなグチャグチャに荒れた長髪を、背中まで垂らしていた。白地にベージュの薄い花柄がついて、ふんわりと末広がりのワンピースは、特にスカートの部分のところどころに、コーヒーでもこぼしたような大きな薄茶色のシミが広がっていた。半袖から出た二の腕や、スカートの裾から突き出た下肢は、ひどく細くて白かった。
 女は、頭の先から爪先までぶしつけに観察している陽介の視線に気づいたのか、ゆっくりと左に顔を向けていった。縮れて絡まりあった前髪の間から現れてくる女の顔立ちを見て、陽介の体は凍りついた。
 女の左目の瞼は、糊をつけたように下瞼に張り付いて伸びていた。美由の姿に違いなかった。美由の開いているほうの右目は、陽介に近い中空を凝視して潤んで震えているようにも見えたが、前髪に隠れてよく見えなかった。陽介は、すぐにエレベーターに向かって歩き出し、振り向かなかった。
 夜明けの小便くさい歩道を大ガードに向かって歩きながら、陽介は美薗の行く先についてあれこれ考えていた。美薗はもともと、友達をつくりたがらないほうだった。大学時代の友人のことは、はっきりと軽蔑していた。女の友達で思い当たる三人には連絡をしてみたが、なしのつぶてだった。あるいは、口裏を合わせて美薗をかばっているだけかもしれない。しかし、あせることはない。だいたいあてはついている。刃物はアリモノで間に合わせることもできるから、拘束するための道具を先に調達したほうがいいかもしれない――陽介はそう思い直して、薄紅色に染まった東の空を見上げながら歩き続けた。

                     (了)