いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■ロナルド・レーガンと動物の習性

ロナルド・レーガンが亡くなった。アルツハイマーで10年も闘病を続けた末だという。とくに夫人にとっては、重い10年間だっただろう。ほんとうにその苦労が偲ばれる。

しかし、テレビで彼の死が「アメリカ人がもっとも慕っている大統領の死」として報じられているのを見ていると、まるで自分が生きてきた時間が、夢の中だったかのような錯覚に陥る。在職時のレーガンに対してわたしがもっていたイメージと、現在の扱われ方との間には、めまいがするほど深いギャップがある。

レーガンは、旧ソ連と冗談のように際限のない軍拡競争を演じ、自国の経済を破綻寸前(というか事実上の破綻)に追い込みながら、いわば「鼻差」で、先に音をあげた旧ソ連が崩壊することで、カッコ付の「勝利」を手にした男だ。確かにこうして書いていると、少々こっけいだが、ヒーローとしての活躍といって言えないこともない。このヒーローが招いた、米景気の「不可避的な」不況のあおりをくったのは、バブル後の日本経済ということになるのだろう。

わたしが大学に通っていたごくわずかな期間(確か1989年ごろ)、保守的な学風のなかでも「右翼」と陰口をたたかれていたある政治学教授の週1回の授業が楽しみだった。彼の考え方は一貫して、文字通りの保守だったが、彼が共産主義の悪弊を語る語り口は、見事だった。講義のあとは、まるでヤクザ映画を見た後のように、肩で風を切って、街宣車に飛び乗る右翼青年になった気分を味わったものだ・・・と言ったら言い過ぎか。もちろん、教授の授業内容は、右翼というよりは現実主義的といいたくなるような、「常識」に支えられたところに、つねに感心させられていたのだが。

以下、彼の考えの要点(だとわたしに思えたこと)
共産主義官僚主義である
官僚主義とは、試験に合格したエリートによる支配で成り立つ
●エリートとしての地位とは、基本的に成り上がり者がハングリー精神によって勝ち取るものである
●成り上がり者は、競争に勝ち残ることで成り上がるわけだから、「ヒューマニズム」を学ばないしそもそも相容れない
●だから「100万人の不穏な分子などものの数ではない」とばかりに、天安門事件が起こる。ヒューマニズムに基づいたいわゆる民主主義国では、こうした「虐殺」は起こりえない
●・・・だから、ゴルバチョフがどんなに西欧的な物腰を示し、紳士的に振舞おうが、グラスノスチ(情報公開)で盛り上がった「解放」の機運を押しとどめてソ連を存続させるために、必ず、軍による鎮圧・虐殺を試みるはずだ・・・事実、この予言は、確かに当たった。独立運動の盛り上がるバルト三国リトアニアに、ソ連は侵攻した・・・現在、ソ連からロシアに受け継がれている官僚主義の遺産は、チェチェン弾圧などに容易に見て取れる)。

・・・まるで動物の習性を記述したかのようだ。というか、この教授に代表される保守的な思想にとって、少なくとも戦後から1991年にいたる時代には、共産主義の、動物としての野蛮な習性を暴くことこそ、至上命題だったのかもしれない。もちろん逆に左翼からは、「帝国主義」という、別の動物の名前が冠せられていただけなのだが・・・。

いつだか、テレビのインタビューに答えて宮沢喜一が「わたしが政治家としてしてきたことは、共産主義との闘いである」と言い切っていたのを見て、辟易としたことがある。日本の保守政治家のヒロイズムみたいなものの根拠は、だいたいこの辺にあるようだ。つまりマッカーサーの言葉を、50年間も信奉していたことになる。こうした自負は、かなりの程度、米国の保守勢力と歩を一にするものだっただろう。彼らは日米安保を通して、本気で、米国と共闘しているつもりだったのかもしれない。左翼を、本物の悪魔か何かだと考えていてもおかしくはないわけだ。

レーガンソ連を「悪の帝国」呼ばわりしたのは、彼の感覚からいって、ほんとうに自然な流れで出てきた言葉だったのだろう。「ソ連は、悪い。共産主義は、悪い。なぜなら、虐殺を行うからだ」・・・まるで、政治家という、既得権を守ろうとする恵まれた層の御用聞きという、ある種惨めな自分の立場を忘れたかのように、レーガンは憤った。

しかしレーガンの、あのうそ臭い、安っぽいシールのようなハリウッドスマイルが、歴史的な笑顔として人類史上に刻まれるわけか・・・あの不気味な「お面」がいつのまに、英雄の微笑に変わってしまったのだろうか・・・。