いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

脳のリハビリ

「この前」書いたと思っていた前回のブログエントリーが5年前のものだと気づいて、少々愕然とした。毎日とか毎週ではないにせよブログを長期にわたって書かないというのは、わたしのようなタイプの、考えてばかりで行動があとになるタイプの人間にとっては「脳の仮死状態」に近い。リハビリが必要だ。

空白期間の脳みそをアップデートするにあたり、この5年間にわたしが新しく知ることになった、本ブログのテーマ(そんなものがあったのか、という話はさておき)にかかわる事項を思いつくままピックアップしよう。

1.シンギュラリティ云々の話
つい先日、フーコーの『性の歴史』最終巻が出版される、というニュースが日本でも報じられて(http://www.afpbb.com/articles/-/3161404)「へー」と思ったということもあってまず思い当たった。

「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ・・・賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと」(「言葉と物」第10章末尾、渡辺・佐々木訳)

深層学習やらビッグデータやらを応用した人工知能により、さっそくそういう時期が訪れたのか、という単純な驚きがある。世間的には驚くのが10年くらい遅かっただろ、と突っ込まれそうだが。

機械の能力が人間を追い越すというのは確かに脅威だろうが、人間が二次的な存在となったときに世界がどのように見えるのか、と思い巡らすことは意義のないことではないだろう。

2.「人間原理」の話
その反対、ということもないだろうが、理論物理学というか宇宙論の話として、「観測する人間がいなければ現在の宇宙は存在しない」などということが、まことしやかに言われている。さらに踏み込んで、キリスト教的な「インテリジェントデザイン」論とは別に、宇宙のインフレーション理論のいうように宇宙は作成可能と考えると、現宇宙のような、いわば「出来すぎた宇宙」は、他の宇宙に住む宇宙人が数学的にデザインしたと考えたほうが理にかなっている、というようなことを科学者がマジメに語っていたりするのはおもしろい。
「宇宙人からのメッセージ」的なトンデモ系のあれやこれやの言説は、意外に核心を衝いていたということかもしれない。

3.「暴力が支配しない世界」の話
考古学の世界では、先史時代の人間の死因で最多なのは「殺人」だとされている。約200万年の間、人間は「生まれ、生き、そして殺される」存在だったというわけだ。これは、歴史時代となり、殺人による死の割合が減少したことは確実だということでもある。
わたしは自分の子供に「学校で教えない世界史」という授業、というか与太話をたまにしていて、彼らの母親に顰蹙を買っているのだが、そのうちのひとつに「国家が殺し合いをせずに統合されたのはEUが最初」というのがある。かの大前研一先生からの堂々たる孫引きである。「たったこれだけのことに200万プラス1992年かかったわけだ。世の中がマトモになり始めたのはごく最近のことだということになる。だからしっかり勉強して世の中をよくするように努力しなさい」というお説教で話が終わるので、息子たちの反応はすこぶる鈍い。
最近よく聞くのは、「学校の入学試験で単純に成績だけで合格者を決めると女子が多くなりすぎるので、男女の比率をあらかじめ決めておかなければならない場合がある」的な話だ。「女子はまじめ」「女子は教師に比較的従順」などというのは、男子にも同じような性質の子供はいるはずなのでおそらくこうした見方は的外れで、単純に、体格や体力で勝る男子より、女子のほうが読み書きやコミュニケーション能力が高い、ということだろう。これは、暴力が世界に及ぼす相対的な影響が減じていることの、ひとつの表れでもあるように思う。
「200万年の間の変化と個々最近の入試の男女比の問題なんて、時間のスケール的にいって無関係でしょ?」と言われそうだが、そうではない。「暴力」という軸で見たときには、東西冷戦の終結を契機として、この四半世紀の間に「非暴力化」という人類史上の急激な流れが押し寄せている、と見るべきではないだろうか。
そのような「非暴力化」という人類史的な視点から、テロリズムや米露中の軍事的な有り様を捉えなおすべきなのだと思う。

またなにか思いついたら、このアップデートを続けよう。