いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

エッセイ

「作者の死」と新世界秩序における自由

少し前のことになるが、下記のようなニュースが報じられ、諸方で失笑を買った。 日本音楽著作権協会(JASRAC)や実演家著作隣接権センター(CPRA)など著作権者側の87団体は1月15日、「文化」の重要性を訴え、私的録音録画補償金制度の堅持を求める運動「Cul…

《破壊と過剰の文学》だけが求められている

またまたなにをいまさら、という話だが、仲俣暁生さんのブログの2007-10-14 Sunday『■アヴァン・ポップの亡霊に気をつけろ 』は、仲俣氏なりの《批評と真実》が端的に表れたいいエントリーだった。 http://d.hatena.ne.jp/solar/20071014 90年代に崩壊したの…

エドワード・ヤンの訃報

エドワード・ヤンの訃報に接し、正直、自分でも意外なほどのショックを受けた。パリにいた1996年に、ジル・ドゥルーズ自殺の報を聞いたとき以上の驚きと落胆だ。映画ファンとは言い難い自分は、エドワード・ヤンの代表作である『クーリンチェ少年殺人事件 《…

ソファの上で目が覚めると

ソファの上で目が覚めると、窓の外の空はすでに明るかった。首の後ろから肩にかけての部分が重い。夜半の二時半ころに入稿を終えて、そのままソファの上に倒れ込むように眠ってしまったのだった。編集部には自分のほかに、二人の人間が残っていた。ひとりは…

数年後に今日の日を

ひさびさの更新です。その間に見に来てくださった方、申し訳ございませんでした。総選挙で自民党圧勝の夜・・・数年後にこの日のことを本当に苦々しいものとして思い起こすことにならなければいいな、と思う。自民党の片隅にいた、かつての「お変人の純ちゃ…

「ポストモダン批評の抑圧」という呪文を……(その2)

さて。ずいぶん時間がたってしまいましたが、先日の続きです。80〜95年の時期を、ここではごく大雑把に80年代と呼ぶことにしよう。80年代の出来事と書誌(それからなぜか、いわゆるオルタナティブ系ロックの歴史)をざっと書き出してみると、ニュー・アカ的…

「ポストモダン批評の抑圧」という呪文を三度口にすると……

google Adsenseとamazonのアフィリエイトに登録してみました。おそらくいかほどの収入にもならないだろうが、このようなブログの文章にどんな「広告」が表示されるのか、単純に興味本位で設定してみたのですが……いきなり文芸社の「あなたの原稿を、出版しま…

『太陽の破片』について

先日も書いたが、年が明けてから聴いた音楽はほぼ、岡村靖幸が歌う尾崎豊の『太陽の破片』、ただ1曲だ。妻が借りてきた『BLUE ~A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 』(ASIN:B0001FAB08)という、昨年の春に発売された尾崎豊のトリビュートアルバムに収録されていた…

聖顔布

朝、公園のベンチで淡い色の空を見上げていた。目の前で紅色に色づいている紅葉の葉の上に、背の高い欅の落ち葉がふわりと乗った。高い空で、小鳥がやかましく歌っている。空といい木々といい鳥たちといい、すべてが慎ましく、また同時にひどく無遠慮に見え…

密室から抜け出ること

密室から抜け出るのは容易ではない。というのも、おそらくは自分から入って内側から鍵をかけてしまったはずの密室に、自分では閉じ込められ、外側から鍵をかけられた、と信じ込んでいるらしいからだ。この能動から受動へ、内側の鍵から外側の鍵へのすり替え…

死ぬ気で書く

死ぬ気で書く、という状態を、ごく当たり前の「日常」として、悲壮感なく、むしろ明るく生きる、ということが問われている気がする。……と、これだけでは、読んでくれている人も、なんのことだか、まったくわけがわからないだろう。書くという行為は、言語学…