いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

「作者の死」と新世界秩序における自由

少し前のことになるが、下記のようなニュースが報じられ、諸方で失笑を買った。

日本音楽著作権協会JASRAC)や実演家著作隣接権センター(CPRA)など著作権者側の87団体は1月15日、「文化」の重要性を訴え、私的録音録画補償金制度の堅持を求める運動「Culture First」の理念とロゴを発表した。「文化が経済至上主義の犠牲になっている」とし、経済性にとらわれない文化の重要性をアピールしながら、補償金の「適正な見直し」で、文化の担い手に対する経済的な見返りを要求。今後は新ロゴを旗印に、iPodなども補償金制度の対象にするよう求めるなど、政策提言などを行っていく。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0801/15/news117.html

あまりにも有名な事実だが、ロラン・バルトが『作者の死』と題するエッセイを発表したのが1968年(わたしの生年^^;)、実に40年も前のことだ。バルトによれば、「作者の死」は作家たちによって19世紀から予測されてきたのだった。

「作者」の支配は、今もなお非常に強い(新しい批評は、実にしばしばそれを強めることしかしなかった)が、言うまでもなく、ある作家たちは、すでにずっと以前から、その支配をゆるがそうとつとめてきた。フランスでは、おそらく最初にマラルメが、それまで言語活動(ことば)の所有者と見なされてきた者を、言語活動そのものによって置き換えることの必要性を、つぶさに見てとり予測した。(『物語の耕造分析』花輪光訳、みすず書房p81)

そしてさらに、

われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり、「作者=神」の<<メッセージ>>ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。(前掲書p85)

とダメを押す。

一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。(中略)読者の誕生は、「作者」の死によってあがなわれなければならないのだ。(前掲書p88−89)

「読者の誕生」は、バルトのこの「宣言」が発表された時点では一種の仮説のように人々の目には映っただろう。しかし現在のわれわれにとって、いまだ変化の途上であるとはいえ、この「テクストの多元性が収斂する場」としての読者は紛れもない現実のわれわれ自身の姿となりつつある。冷戦期とその終結、そして経済・情報のグローバル化は、旧来的な資本主義社会から離脱した「新世界」と、それを構成する「消費者」を生み出したのだ。あえて言えば、「作者=神」という神話を殺したのは、歴史だということになる。権利者団体が掲げる「Culture First」「はじめに文化ありき」というスローガンが、多くの「読者」、「消費者」にとって滑稽で文字通りの時代錯誤にしか映らないも当然だ。

しかしもちろん「著作権はどうなるのだ」という大問題はそのまま残っている。他の多くの社会的現実とともに、制度としての「作者」はいまだに存在し、著作権法によって「作者」たる権利を認められ、保護されている。ごく単純に、法律は現実に則して変化していくものだと考えれば、文化、あるいは作品(というか、ここではあえて多元的なエクリチュールの織物という意味あいで「テクスト」といういささか使い古された言葉を文化、あるいは作品の現代的な名前としてもよいのかもしれない)の担い手が「作者」から「読者」、「消費者」へと代わったのだから、著作権を「消滅」に向かって弱めていくべきだという議論が起こるのも当然の成り行きだ。しかし「制度としての作者の殺害」も、テクストとしての文化も、いわゆる守旧派にとってはたとえ現実といえども受け入れがたい概念であろうし、ただリバタリアン的な価値感において是とされているに過ぎないとも言える。むしろ「現状に則して著作権をとりまく環境を整備する」という類の議論が主流になりつつあるようにも見える。

リバタリアニズムは本質において、各個人の生存に関わる財産権は強化し、文化の新しい主体である個人の「文化的自由」を最大化するためには、著作権そのものを否定することも厭わない。しかしここで注目すべきなのは、文化、作品、テクストの主体が「作者」から「読者」、「消費者」に代替わりした、という事実と、その事実に則した制度の更新だけではない。バルトの直接の影響を受けて作品の多元性=「間テクスト性」への分析も進んだが、もっと広い意味で、文化=テクストそのものの、言語活動のあり方、さらに言えばそれらの「存在意義」が問い直されているのだ、という点だ。

国民国家においては、個人を国民として構造化するのに、戸籍などと並んでもっとも貢献していたのは「国語」の制定とその教育の体制であった。言語を支配し、文化を管理することによって、国民国家が「政治的に」支えられてきたのだ。個人は、文化的自由と引き換えに国民として組み入れられ、生を維持することができた。

近代が終焉したいま、「なぜ人は文化を持つのか」という問いに「人間とは文化をもつ種だから」とアプリオリに答えることはもはやできない。冷戦終結後の新世界秩序においては「国民」はいないし、必要ともされない。アガンベンネグリ、ハートによる「生政治」や東浩紀による「動物化」などの概念に見るように、「人格を持つ(主体性のある)個人」はもはや世界の存立に必要とはされず、疎外されることによって構造化されるところの、あたかも「商品」であるかのような、「人格」を与えられていない個人=「亡命者」の存在が世界を支えているからだ。

新しい世界秩序のなかで、複雑化し、断片化した個人が自由であるためには(それは主体性を前提とする。そしてそれはとりもなおさず「動物」として構造化されないということだが)、文化、つまり受容や発信、表現、改変などの形で、情報の自由な流通が最大限に確保されていなければならない。

「作者」の死によってあがなわれる「読者の誕生」は、その端緒においてすでに、新世界秩序における自由を可能ならしめる、必要条件だったのだ。

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