いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

「個人」にとり憑いた亡霊

一年ぶりの更新となります。一年とひとくちに言っても。。。ため息以外出ない。
私生活上のことを少しだけ書くと、転職はしていないが、職種が変わった。
紙の雑誌編集者から、いわゆる「ウェブプロデューサー」へ。
まったく華麗でない転身だ。
昨年3月、前職からお払い箱にされてからいままでの期間が、ちょうどプログを更新しなかった期間と重なっている。
。。。要するに自分にとっての一年=「書かれなかった愚痴の堆積」。。。
生産的でないことおびただしい。

「思考」のほうも、まるでタイムマシンに乗って現在にやってきたみたいに、一年前と同じ場所からスタートしなければならないようで気が重い。自分の頭にとり憑いているのは、前回、すなわち一年前に自分でここに記した「個人」という言葉についてだ。

個人。
個人ってなんだろう。

「新世界秩序」といい「自由」といい、言葉自体は十分胡散臭い。そして、それはたしかに胡散臭いのだ。

たとえばブランショバタイユを通して語った「友愛」の場合。
それは「自由」や「個人」を媒介や前提としていたのか。否、であろう(いま文献にあたるヒマな時間があるわけでないので断言できないのが歯がゆいが)。
それは「未知」であり、「時間」であり、もっと言えば「死」と「喪」というものを通して生み出され見出されるもののはずだ。
そこでたとえば「死者の自由」と言うことは可能だが、ただしそれはもの悲しい冗談として以外にありえないだろう。

マルクスの亡霊たち』でデリダが作り出したhauntologie=憑在論という冗談(というのは言い過ぎか^^; 立派な概念です、きっと)も、それに似ているのかもしれない。
「死者」が「自由」に憑依し、「自由」をなにか、真面目に考えるのに値するものではなくしてしまうのだ。

たとえば「サイバーワールド」、「ネット世界」、そうしたすでに陳腐化した言葉で呼ばれる世界。
多くの人が言うように、それがデリダのいう「新しいインターナショナル」の、ひとつの形を示しているのはたしかだろう。
彼ばかりでなくネグリの「帝国」や、大前研一の「見えない大陸」(ここ、笑うとこじゃないです)も、同じことを言っているような気もする。
まったく新しい空間がひらけたのだ。
そしてこの、まったく新しい世界、旧世界とは別次元に生まれたこの世界に、どうしようもなく排他的な、隷属的な、「生政治」的な力がとり憑いていることもまた、明らかなのだと思う。

「新世界」では、「個人」が輝かしい活躍をしている。「自由」は、確実に生まれつつある。それは本当のことで、感動的ですらある。マルクスにとっても、デリダにとってすらも、「夢」にしか過ぎなかったなにかが、すでに生まれつつあるのだと思う。

しかし、それらは同時に死につつある。とりついた亡霊によって。
それを忘れてはならないのだ。それが「商品」にとり憑いた亡霊を見出したマルクスの、「権力」にとり憑いた亡霊を見出したフーコーの、「存在」にとり憑いた亡霊を見出したデリダの教えだろう。