いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

デリダの「詩と真実」

くどいようだが、デリダの「憑在論」は、やはり彼一流のジョーク、ダジャレである、と思う。
そしてまたくどいようだが、20世紀末に生きた人間の「考え」にとって、とても重要な概念でもある。
マジメに考えてもしかたがないような言葉遊び、冗談を、概念=考えるための武器とすることは、とても重要だ。
思考が自由である、というとき、そこには「遊び」がなくては、ウソだ。
自由でない考え方というのはたいてい、考えというよりは、「旗色」を示すことにしかならない。
旗色、とは、たとえばイデオロギーというものだ。

自由な考え、ほどむずかしいものも、またない。
大人になるとわかるが、遊ぶのにも根性がいる。

「遊んでいる子供の姿に真実がある」というような、道教の哲学ほど的を得た考えもないものだと、つくづく思う。
ガキどもが遊んでいる姿を見ると、たしかにいろいろと学ぶべき点がある。
たとえば、2、3分前までこれ以上ないくらい楽しそうに遊んでいたガキどもから、そうかと思ってタカを括り、目を離していると突然泣き声が聞こえてきたりする。いつのまにか大ゲンカが始まっていたのだ。
つまり、仲よしこよしの遊びの中に、破綻が憑在していたのである。

ガキを保育園に連れて行くと、経験を積んだ保育士さんの視線にギクッとすることがある。
色目を使って来る、とかそういうことではぜんぜんありません^^;
そうではなくて、ガキどもを盛り上げていっしょに遊んでいるように見えて、「目が笑っていない」のである。
これはコワい。
思うに彼女たちは、ガキどもの遊びの中に破綻の芽を常に感じ取り、観察しているのだ。
実に賢い。

今回の金融危機においても、金融機関相互の信頼の脆弱さという破綻の萌芽は、別にプロの経済学者でなくても見えていた。
それなのに、そうした目立たない兆候を冷静に捉えて、ほんの少しでも備えをしておく、ということがあまりにもなかった。
その備えとは、金銭を仲立ちにした信頼関係は脆い、というノーマルな感覚を忘れず、相互信頼性の崩壊に対処する準備のことである。
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東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」(UTCP)』という組織のサイトに『マルクスの亡霊たち』に関するシンポジウムのレポートが掲載されていて、そこにこんな一文があった。

本発表は、こうしたことが本書のいう「新たなインターナショナル」の曖昧さと関連しており、本書から抵抗運動を組織していくような展望を妨げているのではないかと論じ、そのかぎりではむしろデリダに抗してあえて起源を語る勇気を持たなくてはならないのではないか、と締め括った。

脱構築」という言葉も、もはや人の口に上ることは少なくなった。それでいいのだとも思う。
そして、「新たなインターナショナル」は、すでにインターネットの出現によって、現実のものとなった。
起源の中に起源ならぬものを見、法の中に暴力を見、「新たなインターナショナル」に憑在する古い秩序が排他的な権能を振るう様を見ることは、常に求められているというのが、デリダの教えだと自分は捉えている。
この「憑在」と「応えを求めるもの=résponsabilité」との関係は、自分にとっては今後の宿題ではあるけれども、しかし今にいたって驚くのは、デリダの活動はこのふたつの概念をめぐって、驚くほど終始一貫していた、ということだ。