いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

「途中」としての生と言葉

「途中」ということについて考えよう。

われわれは途中という状態にいることが非常に多い、というか、途中が全て、とも言い得る。

 

たとえば、通勤の途中であるとか、プロジェクトの途中であるとか、休暇の途中であるとかだ。そもそも人生やら生活やらに関する事柄は、全て生まれてから死ぬまでの途中で起こる。

 

また、途中という意味は、時間に限った話ではない。空間においても、われわれは途中、つまり中間的な場所にいることが多い。関東地方に住んでいれば東日本と西日本の中間、日本という意味で言えば中国と米国の(かなり中国寄りの)中間、という具合だ。

 

時間と空間を組み合わせれば、「移動」ということになる。移動の途中、と考えると、抽象的に言えば方向、あるいはベクトルということだろうし、われわれの人生に即して言えば、現在というものは広い意味では常に「旅の途中」だ、といったところか。

 

旅には自宅なりなんなりの出発点があり、訪問先があり、観光やレジャー、あるいは巡礼といった目的がある。そして最後にはまた出発点に戻ってループをかたちづくる。

 

ただしここまで出発、目的、目的地、帰着地などとキレイに要件が揃っているのは旅、というよりはむしろ旅行の場合だろう。より一般的、というかより根源的な意味合いで旅、という時には、芭蕉ではないが「百代の過客」として、まるで他人に「旅人」というレッテルを貼られていることによって辛うじて「誰か」であるような、なんとも定まりのない状態で移動しているのが旅というものではないかと思う。

 

旅とは、このような定まりのない、常に途中であるような旅のことを指しているはずだ。だとすると「途中」は、多種多様な旅、あるいは人生にまつわる事柄の宝庫である。


逆に途中でないもの、つまりは旅の始点、もしくは終点には、それらが旅そのものの枠組を規定しているという重要度に比べて、人を唖然とさせてしまうほど極端に内容が乏しい。さらに言えば、内容そのものが欠如している。人は自らが生まれ出ることそのもの、死ぬことそのものについて、本来、語るべきものを持たないのだ。

 

一人の人間を思い浮かべた時に、「自らが生まれ出ることそのもの、死ぬことそのものについて、本来、語るべきことはない」と言われたら、多くの人は「理屈を言えばそれはそうだろう」ぐらいに受け流すだけだろう。しかしそれが世界そのもの、社会そのもの、歴史そのものの話に置き換えると、その始まりや終末について語ることをそう易々と受け流してもらうことはできない。「宇宙の起源」「日本の起源」「人間の終焉」「歴史の終わり」などという話題は、時に宗教において、時に科学において、時に政治において大問題となりうるし、実際に「宗教論争」紛いの大きな議論を引き起こしてきた。あたかも始まりと終わりが間に横たわる「途中」の全てを決しているかのように、我々が本来語り得ない始点と終点を巡って限りない冗舌が繰り返されていく。

 

始点と終点、つまり「われわれがどこから来てどこへ行くのか」という根源的にして哲学的な問いは、語り得ないというだけでなく、生のほとんど全てを「途中」の状態で過ごすわれわれ自身にとって、実際にはほとんど無関係な問題なのではないか。

 

「途中」を生きるために役立つ知恵、「途中」を生きるわれわれを勇気付けてくれるものをこそ求めるべきなのだ。しかし言葉、思想、あるいはもっと広く、書かれたものの中に、途中について教えてくれるものは少ない。

 

それはなぜなのか。


知恵が、記号である言葉で語られ、書かれる限り、生きて動く「途中」は捉えられない。確かに言葉は、無の中に投げられたサイコロのように全ての始まりであろうとする。あるいはまた、事物を「語り尽くす」ことで、まるで不定形の煙として立ち上ろうとする事物に蓋をするように、終わりであろうとする。しかし始まりと終わりとで区切ることで事物を汲み尽くそうとすることは言葉を話す者同士で了解された言葉の見せかけの振る舞いに過ぎず、「途中」はあたかも言葉の不可視な背景ででもあるかのように、語り得ぬものとして漂い続ける。


逆に、「始まりとして途中を生み出し終わりとして途中を終わらせる以外の方法で、途中について語り得ない始点、あるいは終点」こそが、言葉の本性とも言い得る。事物はもちろん、言葉に先立つ。言葉がどんなに事物の起源として、また事物の終点として振る舞おうとも、それは擬態に過ぎない。それでもこの擬態こそが言葉の本体であり、この擬態の網の目によって、多様な言葉の現実が形作られている。つまり言葉自身もまた「途中」を生きている。


ここに本質的な逆転がある。この言葉の現実こそ言葉の現在であり「途中」なのだ。名指すものとしての言葉は「途中」について語り得ないが、「途中」あるいは生をとりのがすことで言葉自身が生き始めるのだ。


言葉がしばしば、途中としてしかありえないわれわれの生に対して、いわば「死んだ言葉」として虚しく響くにも関わらず、それでもしばしば我々が言葉の魅惑に惹きつけられるのは、言葉もまた言葉の生の、捉えがたい「途中」を生きているからかもしれない。