いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■「祖国」はわたしが生きるのを助けるとはかぎらないばかりか・・・

もうずいぶんまえになるが、id:aimeeさんのブログ『PEREZOSOの森 (PTSD日記)』で、チャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』(我的父親母親)が取り上げられていたのだが、あまりの痛切さに衝撃を受けた。http://d.hatena.ne.jp/aimee/20040323

これは恋愛の話ではない、と私は思う。

これはとても悲しくやり切れない、終止符を打つことの出来ない、長い政治と思想の話だ。

そして私の原風景でもある。

私が中国に居た頃 --それは遠く1980年前半のことだが-- すべての子ども達は赤いスカーフを首に巻いて、毛沢東の思想を学んでいた。物は無かったし、吹き付ける雪は凍るようだったし、街を走るバスはすべて日本の中古で、トイレにドアは無かったけれど、なぜか底抜けの明るさと希望があった。人民、という言葉に威厳があった。

本当にどうして、というくらい、あの時代の中国は明るかった。投げやりっぽい、道路の真ん中で騒いでおおはしゃぎするような、そんな明るさ。

日本に戻ったとき、その堅苦しさと灰色に覆われたような威圧感に、しばらく怯えていたくらいだ。街を道行く人のすべてが怒っていて不機嫌で、私に今すぐにでも怒鳴りつけようとしているかのような、そんな緊張感。

あの北京での、寒い日に暖かいスープをごちそうになったようなあのほんわりした記憶と、みんなの首に巻かれた赤いスカーフと(そして私はそれがうらやましくてしょうがなかった)、ちびた鉛筆をナイフで一生懸命削っていた小学校の机が、この映画で見事によみがえってきたのだ。


わたしは大学で(ほとんど通っていなかったとはいえ)美学専攻などという何の役にも立たないコースを取っていたにもかかわらず、「映画嫌い」といわれても仕方がないほど映画のことはほとんど知らない。だからチャン・イーモウにしろ、この『初恋のきた道』にしろ、一般の映画ファンや批評家たちによる評判はまったくといっていいほど知らない。少し検索しただけでも、主演のチャン・ツィイーがかわいいとか、けなげだとか、映像が美しい、といった評価が一般的なようだ。タイトルのつけ方からいっても、配給会社がこの作品をどのように人々に印象付けたいかは見て取れる。チャン・ツィイーは、たしかに美しい。しかしこうした感想と、《これは恋愛の話ではない、と私は思う。これはとても悲しくやり切れない、終止符を打つことの出来ない、長い政治と思想の話だ。》というaimeeさんが感じたこととの違いの大きさは、かなり決定的だ。この違いは、いったいなんなのだ・・・。

わたしは妻に頼んでDVDを借りてきてもらったものの、いまだに怠慢からそれを観る時間をつくることができていないのだが・・・。

さらに衝撃的なのは、「(1980年代前半に毛沢東思想の影響の濃い中国から)日本に戻ったとき、その堅苦しさと灰色に覆われたような威圧感に、しばらく怯えていたくらいだ」の部分ではないだろうか。これはあくまで直感だが、aimeeさんが日本に帰って感じたことは、かなりの程度的を得ていたのではないか、ということ。

80年代前半・・・それは確かに難しい時代ではあった、という記憶がある。わたしは当時、おそらく中学生か高校生だったろう。当時の「学校」は、いわゆる「校内暴力」の嵐が全国の中学校を中心に吹き荒れたあとの、なんとも白っ茶けた抜け殻のような雰囲気だったように思う。しかし、aimeeさんが言うような《すぐにでも怒鳴りつけようとしているかのような、そんな緊張感》を感じていただろうか? 要するに、自由が抑圧されていると、感じただろうか。かならずしもそうではない。身の入らないやり方で教師と惰性で対立しているような中学・高校生たちに、自由への渇望など感じるまでもないだろう。

「祖国」というもの、世間というもの、世論というものが、多くの場合、そこに住もうとする人間を抑圧し、苦しめてしまうという「当然のこと」。われわれはときに、生き延びるために必要な、危険を察知するその感性を、失ってしまうらしい。そのことを「飼いならされた状態」というのだろう。

イラクの人質事件、襲撃事件、その他、ここ最近起こっていることの多くは、われわれがどこまで、同胞である周囲から、息苦しい圧力を与えられているかを物語るものだ。その、自分を滅ぼしにかかってくるものの存在をとらえる感性こそ、失ってはならないものの最たるものだ。

「祖国」はわたしが生きるのをいつも助けるとはかぎらないばかりか、往々にして死へと赴かせる――その当然の事実に、この短い映画評は気づかせてくれた・・・・(これではいくらなんでも舌足らずすぎかも。自分の生まれた年は戦後23年にすぎないこと、その23年間にあったこと、さらにその後の10年間、さらにそれに連なるバブル期・・・歴史はミシュレが実践したように、「もう一度生きるように」感じ取らなければ、その核心をつかみ損ねてしまうようだ・・・以下長く続)

(たとえば、仮説・・・「国」はわれわれがなんらかの依存症にかかることを推奨もしないかわりに、「依存症」からわれわれを守るために動きはしない、ということ。「依存症」とはその名のとおり、自立心をなくすものであり、現代の人間の身近にあって、もっともたやすくわれわれを壊すことができるもののひとつなのだ。タバコを持ち出すまでもなく・・・)