いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

「幸福論」の系譜の末尾に付け加える蛇足

「幸せってなんだっけ、なんだっけ?」というバカげたCMソングが以前よくテレビから流れて来て、イライラしたものだ。しかし、古来、「幸せ」とはなにかについて、偉大な哲学者たちがそれぞれ、立派な説を唱えて来たのもまた、事実であるようだ。

いままで、そうした「幸福論の系譜」について調べてみようとすら思ったことがなかった。苦労の多い貧しい人生だ、などと自分では思っていても、その実、幸福に飢えていない、つまりそこそこ恵まれている、ということかもしれない。

いまの時代はウィキペディアという便利なものがある。アテになるのか、その場合の「アテ」とはどのような基準で言われている事なのか、というどうでもいい議論はさておき、ウィキペディアには「幸福論」という項目がある。
これをものすごく乱暴に3つにまとめると以下のようになる。
1.人間として、欲望を満たすだけの快楽より高次の満足をもとめ、それが実現できたときに感じる充足感。自分が約に立つ存在であるという自覚(アリストテレスラッセル)
2.神の愛、永遠を感じること(スピノザカール・ヒルティ
3.万事をあきらめて平静な心の状態を得ること(エピクテトスショーペンハウエル、アラン)

今日、ビジネス的な文脈で言われるのは、1ではないだろうか。曰く、「自分はなにかの役に立っている」という「有用感」が、人に働くモチベーションを与える、と。

わたしは夏休みに旅行に行ったタイのチェンマイのリゾートホテルで、プチブルジョワ的に優雅な朝食をとりながら煙草を吸い、追いつ追われつするつがいの蝶の軽やかな振る舞いを見て、まったく別の事を考えたのだった。
「コイツら、いま、幸せなんだ」
蝶は動物だから、繁殖するために交尾する相手をとらえようとしているのだ、という者もいるかもしれない。
しかし、蝶たちの振る舞いには、愛や性の重さがなかった。

老子は、遊ぶ子供の振る舞いに世界の真理を見たというが、それは(それこそわたしが言うまでもないことだが)慧眼だと思う。おそらく、本当にそんなものなのだろう。

遊ぶ子供。きまぐれ。確率的。目的なし。無軌道。

しかしわれわれは、遊ぶ子供、だけでなく、遊ぶ動物たちの姿から、もう一つ別の旋律を聴き分けるべきなのではないか。
遊んでいる子供は、遊んでいる動物は、そのとき、幸せなのだ。幸福の、本来の意味は、「わけもなく楽しい」ということにあるのではないだろうか。
いや、このような言葉の重さとも縁がないほどに、とらえようもなく軽く、自覚もない、奇跡や偶然のような心のありよう、存在/非存在のありよう、なのではないか。

もうひとつ言えるのは、子供も、蝶も、なにもかんがえていないわけではない、彼らにも知性がある。でもときに、不意に遊びがはじまり、幸福が訪れる。だから、多くの文学がイデオロギーであるかのように異口同音に訴えて来た意思阻喪、エクスタシーを、幸福と混同するのは誤りだということだ。

話は飛躍するが、カフカが、あるいはツェランが許せなかったものとは、ユダヤ的なものから文学を、つまり言葉を操る遊びで「幸せ」を引き出してしまった彼ら自身なのかもしれない、とふと思った。