いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

動物の視線

震災からちょうど5ヶ月たったわけだが、それとはほとんど関係なく、動物、それから創造、ということについて書く。

2年ほど前から、小鳥を飼っている。1羽2000円ほどのセキセイインコの雛を、2人の息子それぞれの所有権を認めつつ買って育てている。
それ以前には、自分に取って動物といえば、まず猫だった。幼少のころから数えれば、何匹の猫を飼い、失って来ただろうか。猫は通常なら10年以上の寿命があるはずなのだから、思えばひどい話である。


最後に飼ったのは、目白通りの車道でうずくまっていた、手のひらに載るほど小さな、やせ細った子猫を拾い、育てた猫だった。
わたしはこの猫の人柄、というか猫柄を、ほとんど尊敬していた。
猫を飼ったことがある人なら誰でも気づくことであり、ある意味当然のことだが、猫には個体差があり、それぞれの性格、度量、といったものがある。ひどく臆病な者もいれば、気性の荒い者もいる。
この拾い猫は、感情の豊かさもさることながら、寛容さ、といったらいいのか、落ち着きといったらいいのか、些細な事に動じず、それでいて同居している人間の感情を慮る心遣い、というものを心得ていた。

動物を飼う、という行為自体、人間中心的で傲慢な行為である。
震災のおりにも、論争の種になったものだ。
曰く、なぜ豚は殺して喰うのに、犬猫を救おうとするのか、と。
これは、まことに遺憾ながら、正しい考え方だ。
「かわいいから」というのは、理由としてお粗末すぎる。
犬猫に感情があるとすれば、おそらく、牛にも、豚にも、感情があるはずだ。かわいそう、というなら、すべての生きとし生けるものがかわいそうだと言うべきなのだ。
…などと威猛々しく語る資格は、わたしにはないのだろう。

話が脱線してしまった。鳥の話をしよう。
鳥を飼ってみて思うのは、これほど小さな生物にも、感情や知性がある、ということだ。
楽しいときは喜ぶし、機嫌を損ねることもある。
その点では、人間と変わらない。

そしてわたしの家族は、セキセイインコでは飽き足らず、西アフリカ原産のヨウムを飼おうかと数ヶ月前から検討しているのだから度し難い。
ヨウムは鳥類のなかでも特に知能が高く、人間の言語を理解し、よく話すことで知られている。
天才として有名な(という形容は少々ばかげているが)アレックスというヨウムは、死の前日、「You be good. I love you. You’ll be in tomorrow(またね、明日ね、愛してる)」という言葉を飼い主に語ったと伝えられている。
ちなみにヨウムの価格は20万円ほど。子犬より高いので驚く人もあるだろうが、ヨウムはポピュラーな鳥なのでこんな値で取引されているが、

こんなことは、鳥を飼っていない人には、どうでもいい話かもしれないのだが、要するになにを言いたいかというと、言葉を話す、感情をもつ、なにかを創造する…そういう人間を定義づける、人間特有の能力とされてきたことがらは、なにも人間に限ったものではない、ということだ。