いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

終わりであり始まりである死

4日前に、父が死んだ。

病室で、わたしにとっての固有の、唯一無二の存在、唯一無二の肉体、精神、魂、そうしたものが、少なくとも目に見える形では活動しなくなるのを眼前に見た。
医師の指先が父の上下の瞼を開き、手にしたライトで眼球を照らし出した。
わたしは、父の開いた瞳孔を見た。

父のそばにいた姉が後で語った言葉によれば、虫の息だった父の身体につながれた機器が心停止を告げる発信音を上げ、ほんの数分前に控え室に休みに行った父の配偶者(実母は30年前になくなっている)をわたしが呼びに走った1分足らずの間に、容態の悪化後1日かけて徐々に閉じられていった父の瞼が一瞬、大きく見開かれたという。

遺体にとりついた、父の配偶者の痩せこけた背中が震え、皺のよった両手が、父の普段と変わらぬ寝顔を撫でていた。
「息するの、やめちゃったんだ?」
彼女は、何度かそう問いかけていた。

彼女は、10年以上の間、自宅で夫の介護を続けて来た。
日々の絶え間ない注意、努力、労働によって、栄養を与え、病気の感染を防ぎ、具体的に維持し、生かして来た夫の肉体が、10何年かの間、それに向き合って戦い、遠ざけ続けていた状態ーー「問いかけに答えない」状態に陥ったにもかかわらず、その肉体が生きているときと同じようにただ、手のひらでその顔を撫でさすることしかできなかったのだ。

「固有の、唯一無二の存在には、固有の、唯一無二の死が与えられるべきではないのか」
そう問いかけてみても、死は「問いかけに答えない」という否定形の、受動的な、無名の状態でしか現れる事はなかった。

固有の死ではなく、「死」一般、「喪」一般について語ることは痛ましい。

喪をフランス語ではle deuil、という。語源は、「器具」「仕掛け」「(法学上の)故意」、転じて「策略」「ごまかし」を表すラテン語、dolusだという。le douleur(痛み)と同語源だ。それが10世紀にdol、12世紀に二重母音化によりduel、複数形は無声化によりdueus/deuzという形になり、眼(oeil/yeux)と同様の規則により現在の綴りになったらしい。持ち物を掠め盗られた苦しみ、痛み、ということだろう。
一時期、「対決」を意味するduelと同形となったのは偶然だろうが、しかし、この「一対」というもうひとつの響きから、喪の、二重性について考えたい。

固有の存在を失うと同時に、固有の喪、固有の痛みが始まる。
固有の生は、死ぬことで、固有の喪、固有の「不在」、固有の痛みを生み出すのだ。
死と生、終わりと始まりを表裏のものとし、生と死を貫くこの固有性を、「魂」と呼びたいと思う。
だとすると、「魂」は、生まれようとしている/死なんとしている、という二重のありようを持つことになる。

魂は、永遠に、現れようとする可能性と失われようとする可能性を同時にもつ、つまり不滅であると同時に不在の中でしか触知することのできない、固有のなにかとも言える。

だから人は、かけがえのない唯一無二の魂と向き合うことによってこそ、永遠と死について、なにかを学びうるのだ。