いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

「他者」に、会いに行く

昨年末、米国発の某ビジネス系SNSを経由してヘッドハンターからアプローチがあった。
彼の紹介で、某欧州系グローバル企業の面接を受けるハメとなり、その最終面接があと数日に近づいている。決まれば、3週間の欧州数カ所での研修の後、日本法人での着任、となる。
なんだか、雲をつかむような話だ。

金融関係のビジネスマンにとっては、ごく当たり前のことかもしれないが、旧来的な、因習的な、呪術的な(?)業界にいるものにとって、魑魅魍魎が跳梁跋扈するところのグローバル世界に飛び込むのは、正直、目もくらむほどのリスクを冒す思いだ。もはや転職というのも甚だお恥ずかしい年齢(昭和40年代前半生まれ^^;)だし。

米国系外資系企業につとめていたある知人はつい先日、「明日から来なくていい」と一ヶ月分の給料だけを渡されて叩き出されたという。ましてや、ギリシアの危機に揺れる欧州系企業って、大丈夫なのか?
大前研一先生の「EUは、戦力によらず、話し合いによる規律づくりによって版図を拡大した人類初の試み」(本が手元に見当たらなくてメチャメチャな引用です。あとで直します^^;)というようなご指摘を、まともに受け取って、EUの未来に賭けてしまっている自分って。。。

ちょうど2年前、以前の部署での幹部合宿の際、「世界は変わった。コミュニケーションの形が変わった。ヒエラルキーの時代が終わり、ネットワークの時代になった。社会的なパラダイムシフトに対応できるように、組織を『民主化』すべきだ」と、景気よく一説をぶち上げてから、ほんの2週間後に異動(しかも異動先は白紙^^;)を言い渡された。
いま思うと、ビジネスの場で「民主化」は禁句だよなー。いまさらながらに、自らの浅はかさに閉口せざるを得ない。明らかにやりすぎだ。

そして振り返ると、そのときにもう、自分で「禁断のダイヤル」をグルっと回してしまっていたんだな、と思う。

いま、身の回りで起こりつつ在る変化は、「デジタル化」とかそういう小さい話ではなく、池田信夫先生なんかがおっしゃるように、「地縁的な社会」から「契約社会」への、100年くらいかかるかもしれない、血で血を洗う大激動の、ほんの端緒の部分なのだと思う。その端緒に喜び勇んで、先走って首を突っ込むのは、やはり物好きのやることだ、という気がしてならない。

息子たち、奥さん、「他者」に、「未来」に、なにか大切なものを賭けようとしているアホなとーちゃんを許してください。

ま、落ちたら落ちたで「ほっ」とするのかな、なんて思うのが最悪なんだけど^^;