いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

『ゴッドスター』  古川 日出男 著

古川 日出男作品の「通読初体験」だったのだが、入口を間違えたらしい。久々に叩き甲斐のある作品に出逢えたという、不健全なトキメキを感じた。

単純に、地の文で「高速で」とか書きながら高速の描写で「突っ走っていく」というのは、いくらなんでも古くさいというか、カッコ悪すぎるような気がするのだが、気のせいだろうか。。。。。とか言いながら、巻末に

この作品に読解はいらない。身をゆだねてほしいと思う。ことばに。起きていることに。

などという著者自身によるただし書き(?)がご丁寧に添えられているのを真に受けて、40分ほどで読了(というか斜め読み)しただけなので、マトモな評価であるはずもないのだが。。。

しかしそもそも、こういうただし書きは巻頭に置くべきだろう。わたしはほんとにたまたま、刊行日を調べるために奥付を開いたおかげで、このただし書きの存在を知ったわけなので。読み終わったあとに「読解はいらない」と言われても、「そういうことは最初に言ってくれー」という以外に反応のしようがない。あまりにもバカバカしい。

そもそも(という言葉を二度使ったわけだが)、この作品のキモである(って断言するのも野暮だが)「速度」が、ぜんぜん速く感じないという致命的な欠陥がある。途切れ途切れの「文章」の速さに合わせて「わたし」が(ほとんど考えることもなく)感じ、語るのだが、それがこの作品における速度そのものとなっているため、単調にならざるをえない、という構造的な問題がある。そもそも(という言葉を三度使ったわけだが)散文には「あとさき」というシーケンシャルな順序以外の時間は存在しないのだ。文章を短く区切り、描写する対象を次々に変えていくだけで「速くなる」と考えるのは、あまりにもナイーブに過ぎる。視点がそもそも(という言葉を四度使ったわけだが)、ほとんどと言っていいほど移動しない(もちろん自動車に乗っているから移動している、という程度の移動はあるわけだが・・・以下略)。

ひょっとするとこの作品がいい加減に見えてしまうのは、インプロビゼーションとして書かれたものだからかもしれない。それこそジャズ(笑)のように。しかしこのような「書きなぐり」をジャズやらなにやらに見立てているのなら、それこそ音楽家に対して失礼というものだ。先端的な音楽は、文学や他の芸術の何歩も先を行っている。妙な文学的感傷やナルシシズムとは、当然のことながら無縁である。なんというか、「自動書記」と称して寝覚めに枕元のノートになにやらわけのわからないことを書きつけていた、頭の悪いシュール・レアリストのやっていたことと基本は同じなのではないか。

ここで行なわれていることを音楽にたとえると、ライブハウスのジャムセッションにサングラス&ハデなアロハシャツ姿で現れた某大学のジャズ研OBがもったいつけてできもしない『ジャイアント・ステップス』(一応説明すると、曲中で旋法がめまぐるしく変わるモードジャズの古典的な名曲・迷曲として知られるジョン・コルトレーンの作品。いうまでもなく1960年という大昔の「前衛」)を演奏しはじめたのと似ている。ひとことで言えば、聴かされる身には拷問である。スケールも覚えずにコルトレーンもないもんだ、と後輩の顰蹙を買うこと請け合いである。転調はコルトレーンの本質(のひとつ)なのだから、それができないのなら、コルトレーン(および本質において「速い」表現)になど手を出さなければいいのだ。

それから、語り手の「わたし」と「カリヲ」とのあいだの「親子ゴッコ」にしても、「メージ」、「伊藤博文」という登場人物が現れても、「親子」の閉じられた関係性にほとんど変化がないということもさることながら、カリヲが「社会常識」で語ることで「母から伝えられたのではない外側の知恵」が二人の間に流入するという、ある意味決定的な瞬間においても、なんの転調も起こらない。「予定調和を排しているのだ」という言い訳もできないことはないだろうが、それではただ鈍感で身勝手なバカ女に見えてしまう語り手の「わたし」がかわいそうだ。

どこに一体、東京湾が描かれているのだろう。ここに描かれるのは、海、運河、夜景、山のように見えるビル、液状化(笑)・・・それだけのことである。「セリーヌが描いたニューヨークを一歩も出ていない」と言う類の評言も、不要なペダンチズムでしかないのかもしれない。こんな東京湾は、それこそ日ノ出桟橋のポスターとなにも変わらない。「夜の複数性。」とかいう文句も見られたが、正直、お台場にできた新しいビルの宣伝文句の類とどこが違うのだろう。

最後の部分の暴力沙汰に関してはなにをかいわんや。それよりなにより、タイトルである『ゴッドスター』はどこにいるのか。わたしには本当にわからない。
20年くらい前に、サイキックTVという風変わりなロックバンドが『ゴッドスター』というヒット曲を出した。スターシステムをつくりあげた消費社会の人間たちの欲望は、「スーパースター」のつぎには「ゴッドスター」、つまり死を求めるのだ、として、「ブライアン・ジョーンズ(変死したローリング・ストーンズの元メンバー)はあなたの罪のために死んだ」というキリスト教国においてはセンセーショナルなスローガンを掲げたコンセプチュアルな作品だった。中心人物であるジェネシス・P・オリッジは、現代社会における人間の欲望の有り様を様々な角度から追求したアーティストであり、彼の提示したコンセプトはいまだに有効性を持っていると思う。
もし仮に、古川という作家がこのアルバムから小説のタイトルを取ったのだとしたら、それこそ噴飯ものだ。考えていることの程度が、あまりにも違いすぎると思う。

もっとも致命的なのは、この作品には、文章の(なんとも鈍重な)リズムに酔いしれる以外、対象に対する「愛」が徹頭徹尾織り込まれていない、という点だ。文学は、言葉を通して愛、情熱、冒険、死を生きるために存在するのであり、それによってのみ「リアリティー」なるものを獲得できるのであって、作家個人の自己陶酔の道具であってはならないのだとわたしは信じる。

繰り返しになるが、わたしはきっと、最初に手に取る作品をまちがえたのだろう。もう少しマトモな作品があって、これは、いわばファンサービスとして酔狂で書かれたものなのではないか。

断言しよう。これはデタラメ、と言って言い過ぎなら、デタラメに限りなく近いハッタリである。あるいは作家自身の皮膚感覚に対するナルシシズムの発露とでも言おうか。そういうことは人目につかない場所で「詩」としてつぶやいていればいいことで、散文として印刷し、書店にならべるのは勘弁願いたい。

もしこんなものを「文学以前の厨房のポエム」と切って捨てることができないなら、日本の批評家たちの「自信喪失」ぶりは相当に深刻だ。そうであれば、なるほどこの国の文学はすでに滅びたと考えたほうがいいのかもしれない。なぜなら、「制度としての文学」を成立させるのは、作家でも文学そのものではなく、経済性を度外視してでも「求められる文学」を存在させようとする批評家の矜持にほかならないからだ。