いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

来るべきもの、来るべきとき、あるいは「待つ」こと

「運命は、」などと書き始めることの気恥ずかしさはとりあえず置いておくことにして。
運命は、ふいに回り始める。
この事実、いや、「経験的に知った、現実に対するある種の印象」ばかりは、どうにも打ち消しようがない。
笑うくらい打つ手がない、とすら言える。

生活の上でのさまざまな計画。たわいもない、取るに足らない、小さな欲望の痕跡。
それを嘲笑するかのような唐突さで、運命の風向きは変わる。
目に見えぬ大きな力によって嘲弄されることへの空しさすら、感じる余地がない。

運命を司っているのは、どうやら恐ろしいほどにありふれた、単なる偶然なのだ。
ペンキで落書きされた「神の不在」とでも言おうか。


たまには、ひどく常軌を逸したポジティブシンキングというものを試してみよう。
「神の不在というのは、本当は全然違って、神の存在があまりに大きいので『神はいないのだ』としか感じられないのではないか」
そんなストーリーの絵本があったら読んでみたい。
ただ、「大きすぎる神は、砂粒のような存在にとって無きに等しい」というふうにパラフレーズしてしまうと、とたんに暗い物語になってしまう。

母の、三十回忌(いったい俺は何歳なんだという話^^;)まであと4日。
「お母さん、あなたの顔は忘れてしまいました」と墓前でついこぼしてしまうほど、時が経った。
ほんの十歳ほどの子供だった自分は、身の回りの大人、友人たちに哀れまれながら、その実、自分を哀れみの中に投じた母の死の実感が、どうしても、どうしてもつかめず、焦ったものだった。それほど、幼かったのだ。

いまその子供が人の親となり、あどけない子供を残して逝くという唐突な偶然に出くわすことを、想像することが可能になった。
母が、死を前に感じていたもの。
それは悲しみ、だろうか。
苦しみ、だろうか。
孤独、だろうか。
心配、だろうか。
痛み、だろうか。
あるいは、ホッとした?

そのどれもが、思い当たる。そのすべてであるようにも、思う。そのすべての感情が、偶然のように、降ってわいたのかもしれない。「失われたとき」の「私」が、紅茶に浸したマドレーヌを口にしたときに「偶然」感じたのと同じような、唐突な感情に。

記憶のカーテンの向こうで、くるりとこちらに背を向けて歩き去っていく母の微かな後ろ姿を思うとき、母が自分を生み、その自分が他愛もない生を生きている、そのことの、取るに足らなさ、あまりにも、あまりにも取るに足らないこの世の生と、死の、むき出しの、明白な偶発性に、とてつもない畏怖の念を感じざるを得ない。

前島 誠という神学者の『不在の神は“風”の中に』という本がある。
http://d.hatena.ne.jp/asin/4393332296
ほんの百数十ページのエッセイ集である。しかしわたしは、この作品を忘れることができない。
少々長くなるが、本書のタイトルの意味を正しく伝えるために引用しよう。

 ミデヤンの羊飼いモーゼは、荒野にわずかな草を求めてホレブ(シナイ)の山の麓まで来る。そこで彼は、燃えるしばの中から呼びかける神の声を聞いた。イスラエルの民をエジプトから脱出させよ、とその声は言う。モーセは尻ごみをしてことわろうとするが、神はオレがついているから大丈夫と言う。そこでモーゼは問う。
「民が『その名は何か』と尋ねたら、なんと答えましょうか」
 神々にはそれぞれ名前があった。黄泉の神イシス、太陽の神ラー、嵐の神バアル、愛の神アシュタロテなどなどだ。名はその者が存在する証、名のない神など存在するわけがない――当時はそう考えられていた。だが神の答えは、およそ名前というにはほど遠い。
「わたしはある(原文「ある」に傍点)、わたしはある(原文「ある」に傍点)という者だ」(出エジプト記3章14・新共同訳)
 ふしぎな自己紹介だ。ところでここに見逃せない翻訳上の問題がある。それは動詞の時制が現在形(原文「現在形」に傍点)に訳されてしまったことだ。羅英独仏などどの翻訳をとっても、すべて「ある」と訳出している。だが原典の古代ヘブライ語には、もともと現在形は存在していない。
 一般に使用される〈過去・現在・未来〉という三時制、ヘブライ語にはそれがない。すべての行動の様態を基準にして考え、わざの内側から生み出される時としてとらえる。外側から人間を規制する枠ではなく、むしろわざの中にあるという感覚だ。そのわざが、完結しているかいないかによって、完了形と未完了形の二つの「相(そう)」に分かれるだけである。そこでこの引用句、原文ではどうなっているかを見てみよう。

EHYH・AShR・EHYH(エヒイェー・アシェル・エヒイェー)

 エヒェーは英語のbe動詞に当たり、活用の相は一人称単数・未完了形(傍点)である。未完了形は、まだ完了していない行為、くり返す行為、継続する行為の始まり、さらに願望、可能、命令の意味にも使用される。日本語に訳すなら「ある」ではなく、「あるだろう」とする方が順当だ。したがって文章全体では、
「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」
となる。この違いは重大だった。
「ある」というなら、神は「すでに存在している」ことになる。別の言い方をすれば、いつも変わらず存在しているということだろう。だが、エヒイェーには、そうした意味は含まれていない。

(『不在の神は“風”の中に』前島誠 著 春秋社刊 P5-P7)

。。。なんとなく中途半端なエントリーになっちまったが、眠いので今日はここまで。ではまた。