いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

不眠が覚醒なき覚醒として、不在が存在に先行する不在として「ある」とはどういうことか

iTunesストアを開くと3位に「小柳ゆき」がランクインされていて、ちょっとビックリ。
近年の日本人女性歌手といえば、すばらしい才能が目白押しだ。思いつくだけでも、絢香青山テルマ、juju、加藤ミリヤ木村カエラ西野カナ、枚挙にいとまがない。個人的な好みを言えば、たとえばjujuには、感情表現の見事なコントロールなどに、尊敬の念さえ抱く。

そんな洗練されたセンスを持った彼女たちにくらべると、さすがに10年前に小柳ゆきが歌い上げた『be alive』には、泥臭さすら感じるが、しかしそこにこそ例えようのない魅力を感じる。たぶん同じように感じている人の数は、彼女の現在の知名度にくらべるとずっとずっと多いんだろうね。
なぜ人はそんなに「歌」にこだわるのか。「歌」のもつ何が、ここまで人を引きつけるのか。
小柳ゆきの歌声を聴いていると、なぜかそういう根本的なことを考えさせられる。ヤンキーっぽいセンスとか、黒人音楽からの影響とかとは、ほんとにあんまり関係ないことなわけだが。

そんなことはしかし、どうでもいい。

不眠は、それは決して終わることがないだろうという意識、すなわち、もはや自分の捉われている覚醒状態[目覚めている状態]から抜け出るいかなる手だてもないという意識から、惹き起こされる。何の目的もない覚醒状態。そこに釘付けにされた瞬間、人は自分の出発点あるいは到達点といった考えをすべて失ってしまう。過去に接合された現在は、全面的にその過去の継承[相続]なのである。
(『時間と他者』エマニュエル・レヴィナス 法政大学出版局刊 P15)

不眠というメタファーをレヴィナスが見つけた、あるいはレヴィナスが無時間的な不眠を「実存者なき<実存すること>」、「il y a」、あるいは「他者」という言葉で言い表そうとstruggleしないではいられなかった、ということが重要だ。

もちろんこれを「時間以前の時間」「時間を外側から見る視線」などとパラフレーズしてみてもなにかをとらえたことにはならないのかもしれないが、少なくとも先日ここで引用した前島誠の言葉にあるような古代ヘブライ人にとっての神=エヒイェー=「あるであろうもの」と、密接に響き合っていることは示しうると思う。

そもそもリトアニア出身のユダヤ人であるレヴィナスが、古代ヘブライ語の「未完了形」で神が自らを名指したことを知っていたとは十分に考えられるし、知っていたと考えるほうがむしろ自然かもしれない。だからこそここで、ひとつの疑問が湧く。

「なぜレヴィナスは、il y a(aはフランス語のavoir[持つ]の三人称単数・直接法現在)を選んだのか」

もし「il」という非人称代名詞の中性性に呼応し、かつヘブライ語の未完了形の意味するものを担わせる意味で「il y 」というように「原型」を用いて「実存者なき<実存すること>」を語ったとしたら、彼の哲学は、また別様のものになっただろう、という想像をすることさえできる。

とはいえ、「レヴィナスは、彼の倫理哲学(他者は主体に先行する、主体は他者に対して責任をもつ)を打ち立てるために、あえてヘブライ語には言及せずに『現在』という時間概念を持ち込むことで、カッコ付きの「他者」に、日常に存在する「他人」という実在性を付与した(=故意に混同した)のではないか」という疑念を差し挟んだとしたら、安手の「哲学ミステリー」というレベルの想像に過ぎなくなってしまうのかもしれないが。だいたい、そんな単純な話であるはずもないし、世のレヴィナス信奉者から石を投げつけられるかもしれない^^;

本題に入る前に、また眠くなってしまった。。。
次回はデリダの存在論批判なども見ながら、引き続き「神」について考えたい。