いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

《破壊と過剰の文学》だけが求められている

またまたなにをいまさら、という話だが、仲俣暁生さんのブログの2007-10-14 Sunday『■アヴァン・ポップの亡霊に気をつけろ 』は、仲俣氏なりの《批評と真実》が端的に表れたいいエントリーだった。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20071014


90年代に崩壊したのは「前衛文化と通俗文化の区分」というより、「前衛」という考え方そのものであり、その崩壊がもたらした混乱のなかで私たちは今も生きている。その混乱は私はよいことだと考えていて、その中から生まれてきた表現は、「前衛」への未練を残した「アヴァン・ポップ」などという言葉で捉えきれないほど、多様で豊かなものになっている。少なくともそのような一連の小説が日本では、どこぞの「大学教授」や「仕掛人」の力も借りずに生まれてきたものだということに、私たちはもっと自信をもっていい。

さらにすぐ前の『なにが小説をめぐる言葉を息苦しくさせているのか』では


にもかかわらず、自分の立場にとって都合のいい限りで小説家を「神秘化」する蓮見某のような存在がいて、そこには小説をめぐる真摯な思考、つまり「批評」と呼べるものは何ひとつないにもかかわらず、「小説」の外部でなされた小説家の手前勝手な物言いまでも正当化してしまう。そういうことを許す構造のことを私は問題にしているのである。

ながながと書く気力がいまはないが、ひとつ言える。

脱構築は正義である」という言葉がいまや冗談にしか聞こえないにしても、同様にして「批評は正義である」と言うべきなのだ。「文学は死んだ。批評も死んだ」と言うのはたやすい。文学などなくても誰も困らない(ことも本当はないのだが)。批評などなくても、「思考」などなくても、誰も困らない(戦後60年、批評を、思考を放棄せんとする歴史を刻んできた国もある)。ただし、マルローも、サルトルも、正義のために書いた。それゆえにアンガジュマンの重みが生じるのである。・・・こんなあたりまえのことを書くのもバカげてはいるが・・・。

本ブログでたびたび書かれてきたことだが、選ぶのは自分だということ。すべては自由だということ。それだけだ。

破壊と過剰の経済学(池田信夫)、か・・・なるほど。
サイコロを振ってみよう(マラルメ)、と、いまははっきりと思える。もちろん、《マラルメ》からも自由になって、だ。