いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

エドワード・ヤンの訃報

エドワード・ヤンの訃報に接し、正直、自分でも意外なほどのショックを受けた。パリにいた1996年に、ジル・ドゥルーズ自殺の報を聞いたとき以上の驚きと落胆だ。

映画ファンとは言い難い自分は、エドワード・ヤンの代表作である『クーリンチェ少年殺人事件 《牯嶺街少年殺人事件》 』を大学生時代に何度か繰り返し観たほかは『カップルズ』しか観ていないから、信奉者というのはおこがましい話だ。しかし、最初に作品を目にしてから15年ほどの年月を経て、彼の試みの価値、瞼の裏側にいまだに残っている《牯嶺街少年殺人事件》の美しさが自分にとって大切な記憶、一種の「基準」となっていることを思い知らされる。

まったくおこがましいことだが、「同志」という思いを抱いていた。

映画について語るのは憚られるけれど、自分から見たエドワード・ヤンの試みとは、「演出=フィクションの力によって歴史=真実に近づこうとする」ことだった。嵐、少年たちの汗、暗闇の中で揺れ動く電灯、戦車のキャタピラの上げる轟音で、政治的現実にまさに押しつぶされようとする人間の悲鳴をスクリーンの上に、事実として存在させようとしているように見えた。

この続きは、これからしばらくの間、彼の仕事を見返してから考えてみようと思う。