いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

ソファの上で目が覚めると

 ソファの上で目が覚めると、窓の外の空はすでに明るかった。首の後ろから肩にかけての部分が重い。夜半の二時半ころに入稿を終えて、そのままソファの上に倒れ込むように眠ってしまったのだった。編集部には自分のほかに、二人の人間が残っていた。ひとりはバイク便に乗せるために入稿袋を纏めている三十歳の男性編集者。ひとりはマウスを滑らせながらディスプレーに向かっている三十七歳の女性デザイナー。
 数分後には、その二人も小さな声で「お先に失礼します」と言い残して帰宅してしまった。職場にひとり残ったわたしは、寝入る前にし忘れていた、目次データの整理をする。一月ほど前から、目次の入稿を終えたらウェブ用に目次のデータをアップするよう、マーケティング部の人間に言われていたのだった。
 単純な作業はすぐに終わる。やることがなるなると、ふだんからもてあまし気味の性欲が頭をもたげる。がすぐに、どういうわけか、昨日仕事の合間にウェブで読んだあるサッカー選手のインタビューを思い出した。日本代表に名を連ねる有名選手だが、彼には「師匠」という不名誉なあだ名がつけられている。どうして不名誉かと言えば、「師匠」とは「下手くその極み」という意味の、サッカーファンによる意地の悪い揶揄にほかならないからだ。
 痛ましいことに、この選手は、自分にボールを扱う技術や、走る速さが不足していることをそのインタビューでも認めている。そして、若いころにブラジルのプロチームに在籍していたころの心境を率直に語っている。
「寝るのが嫌だった。朝が来るのが怖いから」
 これはほとんど、生きることへの恐怖と言ってもいい。プロであるとは――責任を果たそうともがきその責任を果たしきらないままに対価を得るとは、なんと過酷なことだろう。誰でも、求められる十分な職能に恵まれているとは限らない。自分の能力の不足を自覚しながら、それでもやるほかない。もし生の主な目的が労働であり、その労働が、満たすことができないことがわかっている要求にあえて答えようと努める行為だとするならば、当の生きること、この底の抜けた瓶に水を注ぎ続けるような行為の目的がなんなのかを問うことはほとんど無意味とすら思える。
 そのサッカー選手はもちろん、代表に選ばれてしかるべき選手だ。体を張って前線でマイボールを守るという、サッカーに不可欠な能力を持っている。わたしはしかし、そのプレイと同等に、彼の姿を美しいと思っている。その表情は、ただボールを追い、スペースを探し、激しい接触の痛みに耐え、少しでも有利な判定を拾おうと大袈裟に痛がって見せるだけだ。そこには虚飾の付け入る隙のない、迫力がある。しかしその美しさの意味は?と問われれば、沈黙せざるを得ない。
 すでに陽は高く昇っている。入稿し終えた原稿は、印刷所で製版の工程に入っているだろう。それが輪転機のインクによって白紙を汚し、製本され、配送に回され、書店や売店の店頭に積み上げられ、小銭を置く客たちの手に渡り、彼らの通勤の合間の暇つぶしに供され、捨てられる。もちろん、彼らの求めるものを満たすことなどできないだろう。小銭を置き去りにした彼らの奇特さに感謝するほかない。
 そんなことに何の意味がある?
 それは愚問としか言いようがない。わたしはプロだ。ただ少しでもマシなものをと念じながら、売り物である本を作り続けるほかはないのだ。
 きっと、「外」は葉桜の季節を迎えようとしているのだろう、とふと思う。目の前のわずかばかりの仕事を終えてビルの外に這い出た自分の目は、コンクリートの狭間に、若い緑を探すともなく探すのだろう。