いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

死ぬ気で書く

死ぬ気で書く、という状態を、ごく当たり前の「日常」として、悲壮感なく、むしろ明るく生きる、ということが問われている気がする。

……と、これだけでは、読んでくれている人も、なんのことだか、まったくわけがわからないだろう。

書くという行為は、言語学やら文学理論やらを持ち出すまでもなく、死ぬことの疑似体験だと思う。

論理的に書くのがいまは面倒だ。ここでは、書く行為と死ぬことの共通点が、「なにものでもなくなる感じ」だということを指摘しておくにとどめよう。

死体が燃えて灰になるか、埋められて土に返るかするように、自分に固有の肉声が、他者と共有している文字へと収斂していくこと。これが書くことだ。

書くことは、すなわち死ぬこと。

だとすると、死を前にして悲壮な硬直状態に陥るのは、戦術的あやまりだということがわかる。死に対する態度を紋切り型の「悲しみ」に収めようとするのは、いわゆる「世間」の機能であって、曲がりなりにもなにかを創造しようとする者の態度でないことも明らかだ。

それが本当に「創造」と呼ぶべき行為なのかはわからない。さらなる「ぶち壊し」が現前するだけのことかもしれない。

ニーチェキリスト教を拒否したのも、そんなところかもしれない。イエスは逆説によって弱者を救う過程で、図らずも死を固定化し、管理しようとする動きに同調せざるを得なかったのだ……。

だからだろう。悲壮さから逃れ出るのに失敗した表現の、なんと多いことか……。