いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■世界は無限ではない

3ヶ月以上、更新が滞っていました。文字通り「沈んでいた」状態でした。
見に来てくれていた方、すみません。
バラバラに掲載していた『テルアビブ、一九九八年』http://kakena.hp.infoseek.co.jp/TELAVIV.shtmlという小説を一つのページに、修正してまとめました。戦争のような「大きな暴力」と、日常のいらだちに由来する「小さな暴力」の、ある種の近接性について考えてみた作品です。ご興味があれば、上のリンクからたどってみてください。


考えてみるとこのブログは、3年ほど前に初めて以来、ずっとこんなふうに風前の灯火のような、「ほとんど消えている」状態で、続けてきたのだった。

この間、個人的にも世の中的にも、いろいろなことがあった。以前ここでも"モスクワ劇場占拠事件"(ノルド・オスト事件)について少しだけ取り上げた(http://d.hatena.ne.jp/kakena/200405チェチェン問題は、北オセチアの小学校占拠事件という最悪の事態を引き起こしてしまった。

爆発による現場の混乱、子供たちを助けようとして学校内に殺到した親たちの行動、そしてさらなる混乱から、子供たちや大人たちに向けて銃が乱射されたこと……目の前に流れていく映像のすべてがショッキングだったために、普段はやかましいメディアも言葉を失っているような状態だった。

テレビ映像というものが、現実のごくわずかな部分した伝え得ないということが、これでもわかる。なぜなら、あの映像の向こうで起こっていたことがらのほんの少しでも、見ている我々が皮膚感覚として感じることができていたら、テレビの前で卒倒する者は少なくなかっただろう。

映像は、なにかを見せると言うよりは、見る者を包み込むなにか、なのかもしれない。イデオロギーというよりは曖昧な、情報の供給者と需要者の間で形作られる、ほとんど「総意」のようななにか……。

PLOアラファト議長の死去、ジョージ・ブッシュの再選、新潟での震災……。個人的な齟齬感の動かしがたさと、動きをとめない「世界の大きさ」との対比は、ほとんど皮肉に近いように見える。それこそ、意気阻喪させてしまうなにか……。

しかし、と考えてみる。
世界は確かに大きい。しかし無限ではないのではないか。

世界は限られているという事実に、沈黙することを禁ずる何か、あるいは書くこと、沈黙の中で叫ぶことを強いる何かがあるのかもしれない。