いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

『太陽の破片』について

先日も書いたが、年が明けてから聴いた音楽はほぼ、岡村靖幸が歌う尾崎豊の『太陽の破片』、ただ1曲だ。妻が借りてきた『BLUE ~A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI 』(ASIN:B0001FAB08)という、昨年の春に発売された尾崎豊のトリビュートアルバムに収録されていたこの曲を初めてカーステレオで聴いて、いっぺんで大好きになった。なにをいまさら、という話なのだろうが……。

このアルバムには宇多田ヒカルMr.Childrenなどのほか、それほど名前の知られていない歌手も多く含まれているが、ていねいにプロデュースされたいい作品だと思う。そしてなかでも、『太陽の破片』は、氷柱のように透明な歌詞と、官能性とポエジーが入り混じった歌声、そしてエフェクトを抑えたシンプルな音作りに、本当に耳を奪われる気がした。

不勉強(?)なことに、わたしは尾崎豊についてはいくつかの曲を聴いたことがあるという程度で、岡村靖幸に至っては、曲はおろか彼についてほとんどなにも知らないといっていい。しかし、それだからこそ、音楽がそのままの姿で自分の中に流れ込んできたのだとも思う。


昨夜 眠れずに 失望と戦った

この歌いだしは、昨日引いたアントニオ・タブッキの『インド夜想曲』の扉に書かれたモーリス・ブランショの言葉を思い起こさせる。


夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。
彼らは何をするのか。夜を現存させているのだ。

語り手は、不眠に陥ることで罪を犯し、罪人として無形の悪魔=失望との戦いを経験する。さらに、語り手は不眠の中で、恋人の肉体を包む敵とも向かい合わなければならない。孤独な瞑想、そして「誘惑の山」のような夜の街角での「悪魔の試み」との戦いの中で、語り手はほとんど留保なしに「禁欲」を選び取る。そして、「あわれみ」という名の絶対的な感情に包まれる。

君を守りたい 悲しみこぼれぬよう
あわれみが今希望の内に生まれるよう
もし君が暗闇に光を求めるなら
ごらん 僕を 太陽の破片が頬をつたう

    昨夜 眠れずに
    昨夜 眠れずに

涙の上で控えめに光る太陽は、血の涙を思わせる。つまりここで表されているのは、光を媒介とした聖母子の合一だと言ったら言い過ぎだろうか……。


ここまで見てきてわかることは、『太陽の破片』で表現されているのは、恋愛の歌という体裁を借りた、一種の福音書的な受難劇だという点だ。

世俗的な恋愛を語りながら、感情や既存の宗教の傍らをいわば「一気に通り過ぎ」、至高性や超越性への意志に至る、その率直さ、「飾り気のなさ」であり、絶対的な孤独に、胸を打たれる。

営々とした日常を紡ぐ街を追われた恋であり、自発的に遠ざけられたセックスであるところの具体的な次元から出発して、偶像を廃し、禁欲的に超越性を求めるまでに至る孤独さは、ジャンセニズムや神秘主義キリスト教と通底するものだ。

尾崎豊が、キリスト的なものをどれほど意識していたかはわからないが、ここにあるのは紛れもなく、受難によって世界を救おうとする、狂気のような意志だ。そういえば、マスコミが尾崎豊に貼り付けたレッテルは、「若者たちの教祖」というようなものだったわけだが、このレッテルは図らずも(平板さの中で)尾崎豊の至高性への傾向を言い当てていたことになる。

われわれの住む高度消費社会の、事物を商品やイメージとして「平準化」「平板化」しようとするダイナミズムと、『太陽の破片』に表れた超越性の希求は、皮肉なまでに対照的だ。ここに、わたしのように卑俗な散文を書き連ねる者に課せられた課題が横たわっているように思う。

今日、超越性は求めうるものなのか?
そのようなものはそもそも、必要とされないのか?
もしそうならば、《自由 平和 そして愛を何で示すのか》?

こうした問いに、答えを見いだすためには、超越性のシミュレーションとしてのファシズムの生け贄となった、ホロコースト的な「人間性の物質化」という現実をくぐり抜けてきた表現、あるいはイメージの浸食によって寸断された存在やコミュニケーションのありようを描いた表現に、再び、あらたな形で向き合う必要があるのかもしれない。