いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

『7月24日通り』吉田修一著

あけましておめでとうございます。
また今年も、ぽつりぽつりと書いていければと思います。

正月の間にしたことは、飯を食う、寝る、トイレに行く、自動車に乗る、人に挨拶をする、息子たちにご飯をあげる、息子たちのおむつを替える、長男とアンパンマンのブロックを組み立てる、吉田修一の『7月24日通り』(ISBN:4104628034)を読む、(いまさらだが)岡村靖幸の歌う尾崎豊の『太陽の破片』を(1日に100回くらい!)聴く、それぐらいではなかったか。

『7月24日通り』と『太陽の破片』の組み合わせはちょっと異様だが、事実だから仕方がない。

今日は、『7月24日通り』について書こう。

地方都市に住む平凡な独身女性を主人公とする『7月24日通り』は、体裁は恋愛小説だが、中身は幻想についての物語となっている。これは、幻想的な物語というのではなく、幻想が現実の生活に対して及ぼす持つ力や幻想の生(?)の姿と向き合うことについての物語、という意味だ。


 たとえばいつもバスに乗る「丸山神社前」という停留所の名前を、「ジェロニモ修道院前」と言い換えてみれば、右手に海を見ながら岡を越えて市街地へ入っていく経路は、リスボンの地形とそっくりで、だったらこの「岸壁沿いの県道」が「7月24日通り」で、再開発で港に完成した「水辺の公園」は「コメルシオ広場」だ、などと言い換えているうちに、県庁所在地でもない、どちらかといえば地味な日本の地方都市に、リスボンの市街地図がすっかり重なってしまった。

「登場人物の気まぐれにも似た思いつき」によって、ささやかだが力強く現実を作り変えてしまう幻想の機能をさらりと見せてしまうあたりは、さすがに吉田修一と思わせる。丁度『ランドマーク』(ISBN:4062124823)で、大宮に建設中の高層ビルに埋め込まれる無数の「貞操帯の鍵」を、あたかも関東平野を見下ろす巨人の黄金に輝く背骨のように描いたのと同様だ。

生まれ育った地方都市を覆っている空を色あせたものとしか思えないと同時に、自分のことも、目立たない「観客」のような存在だと思っている主人公の小百合は、ポルトガルの青い空を透かし絵のように重ねることで、なんとかバランスを保って暮らしている。しかしそのバランスは、誇りとしている美貌の弟と不釣合いな地味な女との恋愛、そして高校時代から憧れの、やはり美貌の先輩と友人との恋愛、そして自分にも急激に訪れる感情の波によって、かき乱されることになる。

ポルトガルの詩人、ペソアが全編を通じて重要な色彩を加えているが、わたしは不勉強なことに、ペソアの作品を読んだことがないのでなんともいいようがない。ただ自分の知る範囲で言えば、ペソアといえばタブッキ。そして実際、『7月24日通り』の舞台となっている「偽リスボン」は、『供述によるとペレイラは…』(ISBN:4560046158)の主人公ペレイラが、あらゆる変化から身を引くように暮らしているリスボンととても似ているし、なかなか行動を起こそうとしない小百合自身も、ペレイラに似ているように思う。

ペレイラは、決して自分を観客として感じたりはしないが、ジャーナリズムの片隅で糊口をしのぎながらフランス文学という閉じた世界の中で夢想に耽り、ファシズムへの異議をドーデの『最後の授業』の翻訳を新聞の片隅に掲載しようとすることで控えめに表現するような、完全に脇役の知識人として生きている。

両者の大きな共通点は、自分とよく似た年少者の言動や行動をきっかけとして、「現実に帰ってくる」ことにある。小百合の場合は、目の前で「間違いをしたくない」と自己分析して見せる弟の彼女を、鏡に映った自分のように感じ、ペレイラは、社会面の記者として活躍していた自分と似た青年を前にして、ようやく、回り道を終えて行動を起こし、「現実」へと向き合うことになる。

もちろん、迂回を経たのちに再び向かい合う「現実」は、もとの現実とは異なる。それは幻想の力で変質した未知の現実、つまり「未来」だ。未来への賭け――これが、「幻想」と対になるもうひとつのテーマだろう。小百合もペレイラも、かなり分の悪い勝負へと自分を駆り立てることになる。それはなぜなのか……? これがよく似た二つの小説『7月24日通り』と『供述によるとペレイラは…』が、読むものに提出した課題だ。ヒントは、両者が下すのは、東京行きとパリ行き(記憶があやしいので違ってたかもしれません)という「越境」をめぐる決断だったということ、だろうか。

わたしもゆっくり味わいながら、答えを考えたいものだ。