いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

『極西文学論―Westway to the world』仲俣暁生 著

ISBN:4794966458

考えてみると「文学評論」というジャンルの本自体をしばらく読んでいなかったこともあって、仲俣暁生さんの労作『極西文学論―Westway to the world』に、かなり新鮮な印象を持った。

例によって時間があまりないので、以下、思いつくまでに雑感を記す。

『極西文学論』の柱は3つ。
1.垂直の視線
2.「西」への運動
3.「恐怖」を巡る村上春樹吉本隆明批判

九十年代以降の日本文学に見られる「垂直の視線」が、第二次世界大戦時に空襲によって《「上空からの視線」にさらされた無力な自分》という当時の日本人に刻みつけられた世界認識の記憶とつながる、という主張は、とてもユニークだし注目に値するものだと思う。

そして実際、この作品のかなりのページ数をさいて展開される村上春樹吉本隆明『ハイ・イメージ論』批判も、この主張を証拠付けるものだ。

ただ、『極西文学論』で問題にしているのは、現代のいわゆるJ文学の果たした役割は、第二次世界大戦の記憶を見つめなおしていることだ、と指摘することだけではない。恐怖のひとつのタイプ=「見られることの恐怖」を言語化した試みとして評価している点だ。

舞城、吉田、星野、保坂、阿部らの作品は、「恐怖」の源泉を問い、それを書き記そうと試みたという点で、「恐怖のまわりをめぐる」ことしかできなかった村上春樹の文学を「更新」した――『極西文学論』は、文学におけるこの「断層」を整理して見せたことによって、文学史的にはもちろん、戦後の歴史を考える上でも意味のある仕事となった。

ただ、表題の「極西文学」という言葉の根拠となっている「西への運動」という概念については、正直、よくわからなった。日本人が、自分たちは「極東」の住人だという認識で凝り固まっている、というのは本当にそうだと思うが、もともとはフロンティアを意味した「西」が、現代にいたってどのように変化し、また日本人にとって(という前提の立て方自体に問題があるのかもしれないが)どういう意味で必要とされる視点なのか、という部分が、理解できなかった。たぶん、わたしの読解力が不足しているせいだろう。要再読ということか。


「恐怖」の一端は、永遠のなぞなどではなく、「熊の場所」=恐怖の原因に戻ることによって捕らえうるのだということ。そしてそこから、さらに進んでいかなければならない――これは、過去を清算する云々の話ではなく、かなり重い課題だとは思う。

先日、朝日新聞に掲載されたインタビューで、吉田修一は「子供のころ記念館で原爆投下後の長崎の街の写真を見て、『街というのはなくなるものなんだ』という感想を持った」というようなことを答えていたが、これなどは『極西文学論』の主張をまさに裏付けるコメントだろう。

結局のところ、ここで抽出されたテーマとは、「故郷など、絶対的と思われる場所についての意識そのものが相対化され、否定・破壊されたあと、人はどう生きていくものなのか」ということだ……などというと、問題を単純化しすぎだろうか。そして答えはさらに単純だ。「それでも、なんとなく生きていくのだろう」ということ。そしてこの、「なんとなく」をいかに言語化するのかが、これから文学がかかわっていくフィールドなのだろう。

舞城の引用など、仲俣さんの書いたものを初めて読む人には意味不明に思われるだろうという部分がところどころあったし、村上春樹批判の中には「言うだけ野暮」的な部分もあったし、後半の議論は正直、性急だと思った。が、ブックガイド的な先の作品『ポスト・ムラカミ〜』から一歩進んで、文学の問題を真正面から捉えるこころみとして、文学に、あるいは今日なにかを表現しようとすることに興味をもつすべての人に、大推薦したい作品だ。

・・・あと、同じような視点からの音楽・写真(表紙に使われたティルマンスの話は本書にも出てくるが)・ファインアート、映画批評も当然可能となるだろうが・・・なにか新たな視点は提出されるのだろうか、と気にはなる。たとえば、メディアアートのジャンルでは、早くからパースペクティブな空間把握に代わって、トポロジー的な空間(?)としてのネットワーク的な場所の意識が主流になっているわけだが・・・当の「作品」のほうに論ずるに足りるものがあるかって話になるけど(苦笑)