いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

聖顔布

朝、公園のベンチで淡い色の空を見上げていた。目の前で紅色に色づいている紅葉の葉の上に、背の高い欅の落ち葉がふわりと乗った。高い空で、小鳥がやかましく歌っている。空といい木々といい鳥たちといい、すべてが慎ましく、また同時にひどく無遠慮に見えた。

自分がなにかに行き詰まっているらしいことは、ごまかしようがない。それでも、顔を上げて前に進まなければならない。「そういうもの」なのだ、きっと。

詩の言葉が、立っている、と感じられることがある。なんでもいい。たとえばこんなふうに。

『彼女の冷たい手』
 私の手の中の彼女の冷たい手を、私は追い求めた、私たちが消えること、そしてそこで私の熱を失うことを望みながら。夜を豊かに持って、私は固執していた。
 愛する死者たちが、自分たちの心を私たちの感情にするために廻る回り道よ、君たちを通ることは禁止されていない。そのおびただしさも、その兆候も数え上げられることのない回り道。

ルネ・シャール『その輪の中で輝いていた、魔力を持つ夜』より 青土社 吉本素子訳『ルネ・シャール全詩集』p340)

言葉の孤独。それは、「わたしはしかじかのものを指し示し、追い求めるが、そのものはここにはない」と語る者の、寄る辺ない姿だ。

もう一度、空を見上げると、そこには「ただそこにある」という受難の確かな相貌が刻まれた聖顔布が見いだされる気がした。