いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

「ポストモダン批評の抑圧」という呪文を……(その2)

さて。ずいぶん時間がたってしまいましたが、先日の続きです。

80〜95年の時期を、ここではごく大雑把に80年代と呼ぶことにしよう。80年代の出来事と書誌(それからなぜか、いわゆるオルタナティブ系ロックの歴史)をざっと書き出してみると、ニュー・アカ的名著のみならず、日本のポップ文学のその後を決定付けるような「名作」の多くが、この時期に「一気に」登場しているように見えることに、まず驚く。「そんなにスゴい時代だったんだ?」という感じ。ただ、わたし個人の問題に限定したとしても、この時代を懐かしく思い返すことには意味がない。要は、この時代に、現在につながるとりあえずのスタートラインがあったのではないか、ということだ。

もう一度、「ポストモダン批評の抑圧」と口にしてみよう。
・・・やはり恥ずかしい。懐かしむ気持ちで振り返るには、あまりにも恥ずかしい。そしてその恥ずかしさの上に、今日の自分が成り立っていることを、認めよう。その恥ずかしさの根っこを掘り返してみよう、というのが今回の趣旨だ。

文芸批評で思い返してみると、89年の蓮實重彦『小説から遠く離れて』が印象的だった。この作品では、それまで映画批評を中心としてジル・ドゥルーズに深く傾倒していた蓮實が、70〜80年代の代表的な作家の代表作を網羅的に分析しているという点で、いわゆる文学ファン以外の人々の関心を引くだけのものがあった。そこで用いられていた分析手法は、これがまた一風変わっていたというだけでなく、タイトルにも表れているように、いくぶん人を食ったものだった。つまり、蓮實自身が小説の本体のようなものと考えていた「描写」を度外視して、小説の「筋」(蓮實の用語を用いれば「説話論的磁場」)を中心に据え、この時代の主要な作品と目される小説の多くが、ほとんど同じ筋書きを持っている、と喝破したものだった。そしてその筋を構成する要素というのが、天皇制を連想させる「陰の実力者」であったり、その実力者を倒す「双子」であったりという具合に幼稚なものであり、小説家たちのそうした想像力の貧しさを批判する(というかからかう)というのが趣旨だった。

「『羊をめぐる冒険』と『万延元年のフットボール』と『吉里吉里人』と『優雅で感傷的な日本野球』が同じ筋だって?」
というわけで、世間的にもかなりの驚きをもって読まれたのではないかと思う。

そもそも『小説から遠く離れて』がポストモダン批評であったかというと、それが少なくとも小説の中身(この小説はこーゆー意味をもっている)ではなく、小説の骨格を形式の面で検討しているという意味では、ポストモダン批評と言い得るものだった。

批評におけるポストモダンとは、必ずしもデリダドゥルーズの思想を反映したものではなく(またその必要もないだろう)、もっと大雑把な意味での、「講壇批評」と対立する「形式主義」という程度の意味ではなかっただろうか。ポストモダン批評のネタ元であるフランス新批評(ヌーベル・クリティーク)の端緒となったフランスの批評家レイモン・ピカールロラン・バルトの論争(60年代中ごろ)では、旧来的な講壇批評家であるピカールはヌーベル・クリティークの形式主義には疑似科学的な欺瞞があると批判し、一方バルトは言語学の概念を(ややテキトーに)拝借して、真実=作品によって「意味されるもの」を問題にするのではなく文学作品の形式=「意味するもの」としての有効性を問題にすべきだと主張したのだった。今思えば、それぞれの言い分には、それなりの妥当性が含まれていたのだ。特にピカールの批判は、20年ほどの時間を経てポストモダン哲学の欺瞞を批判した「ソーカル事件」へと連なる。

その後の歴史は、概ねバルトに味方したように見える。日本では、蓮實重彦を旗頭として、作家個人の生い立ちや歴史的背景によって作品の「意味」=「真実」を言い当てようとするタイプの講壇批評は駆逐された、とまでは言わなくても、かなりナイーブなスタンスとして退けられたと言っていい。そういう状況の中で、ソーカルの主張を敷衍する形で正面切ってポストモダン批評を批判したのが、山形浩生だった。

ソーカルの主張をそのまま延長した山形浩生の批判は、ポストモダン批評の「形式主義」そのものに対してではなく、あくまで、周辺科学(精神分析言語学・人類学・物理学・数学)の概念を「比喩的に」用いるその論の進め方に、こけおどしの意味が含まれていなかったか、という点である。山形が『たかがバロウズ本。』ISBN:4756330169ている、前述の音楽雑誌『フールズメイト』に掲載されたバロウズの翻訳のデタラメさ、さらにそのデタラメな解釈にのっとった疑似科学的かいかぶり&曲解などは、好例かもしれない。これは、確かに恥ずかしい。講壇批評よりよっぽど恥ずかしい。そしてフールズメイトの読者だったわたし自身、まったく理解できないながらも、「バロウズカットアップメソッドというのは…ドゥルーズ/ガタリがいうところのアンチオイディプス的なもの(?)の実践なのではないか!」と感心していたのだから、お話にならない。

さらにこの批判を延長すれば、そのようなこけおどしによって形式としての文学を、あたかも蒸留酒のように抽出して見せたかに振舞う姿勢そのものに、そもそもの欺瞞がある、と帰結することは可能だ。山形浩生はそこまでは問わなかったが、仲俣暁生や星野智之は、ポストモダン批評が「作品」(あるいはテクストでもなんでもいいが)ととらえた、抽出された「形式」という姿をした文学には、「主体」の問題が素通りされたのだ、と断じていることになる。

ポストモダン批評の大親分的存在である蓮實重彦の主著(というのは少々無理があるか・・・)『物語批判序説』は、フランス革命に材を得て、蓮實の基本的な考え方、そして彼の中心概念である「凡庸」の本質をよく表わしている作品だ。文体や構成により、「かいつまんで語ること」を「戦略的に」拒否してきた蓮實の世界を要約することは蛮勇に近いけれど、あえてそれをやると、こうなると思う――現代という時代において人間の考えはそもそも、同時代の思考方法の限界=「物語」に強く限定されており、「凡庸」は、「愚鈍」とも言いうる一部の例外を除いて、ほとんど避けがたい。だから、それでも「生きた思考」を行おうとすれば、思考や言説の凡庸さを意識し、ほとんどそれと同一化しながら異化作用のようなわずかな差異を生み出す、より繊細な感覚が求められる―ー

このような考え方は、確かに息苦しい。「抑圧」といわれても仕方がない。しかし蓮實にとっては、その息詰まるような言説の硬直した空間こそ現実であり、作家たるものその息苦しさに耐えて、生きた言葉を書くことが使命なのだ。

蓮實はわたしの知る限り、「主体」について正面切って語ることなどなかったと思う。ロラン・バルトの「作者の不在」について語るときも、「主体」の中身を問題にはせずに、「終わり」の部分に着目した。それは「主体」や「主体性」という言葉、そして概念、さらに言えば「主体をめぐる物語」のナイーブさ、ベタさ加減を警戒した(というより馬鹿にした)結果かもしれない。しかし、「主体」の問題など存在しない、と主張していたわけでもなかった。

そしてこうした「主体」の問題を、持って回ったやり方で煙に巻き、ないがしろにしようとしているように見える蓮實の姿勢に、仲俣や星野は苛立ちを抑えられないのだろう。

つまり、仲俣や星野が俎上に上げようとしているのは、「主体一般」のことではなくて、具体的な主体、たとえば「作家自身の主体」というような主体のことではないか。同時代に加担し、変転する世界の奔流に紛れる小さな「存在」としての主体だ。上に挙げたような20世紀の人文諸科学によって「主体」には新たな意味が付与されたが、それによってすべてが解き明かされたわけではないし、事実、95年を境に現れた「新しい世界」において、「主体」の受難は別の形でわれわれの前に、大きな疑問符として突きつけられたのだ、というのが、仲俣や星野といった今日の書き手の、共通する認識であるように見える。

いわゆるポストモダン批評が、文学を「形式」ととらえるという重要なマニフェストによって、80年代の文学に、雑食的な、という形容がふさわしい旺盛な生産力を与えたのは否定できないだろう。そして、阿部和重を筆頭とする95年以降の文学に、文学が真実を伝えることばではなく、有効性でもって語られるべき「形式」のひとつなのだ、という確固たる前提を与えたこともまた、無視し得ない事実だ。

こうして見てくると、現在の文学の「舞台」を用意したポストモダン批評が抑圧として働きつつある今日の文学にとって、「主体」が、古くて新しい主要なテーマとなり始めているのかもしれない。そしてその「新しい主体」は、星野、吉田、阿部といった作家たちの作品に見られるように、よりどころをなくし、分裂し、あたかも事物/イメージに吸収されたかのように希薄化・飛散化した主体なのだ。もちろん蓮實が諌めたように、そこに「主体の終わり」を見ようとすれば、安直さ、凡庸さの陥穽に陥るだけだろう。しかし、大戦間時代より複雑化した形での、「主体性の危機」を迎えていることは、われわれの身近にあってわれわれの主体に取って代わろうとしている色とりどりのイメージが証立てているところの、とても具体的な現実なのではないだろうか。


先走りを覚悟であえていうなら、ポストモダン批評、あるいはより一般的に、疑似科学的形式批評というスタンスは、皮肉な形でファシズムの精神的な土壌を準備しつつあるように思う。今日の、いまだに姿の見えないファシズムにおいて、なにが、なにを束ねようとするのかは判然としない。グローバリズムが、あるいは米国、あるいは中国による影響力の行使がそれに当たるのか、あるいは今日のメディアに起きているような、「自主規制的無名の圧力」なのか、と問われても、それはわからない。

ただひとつ言えるのは、今日の多くの作家が、主体が崩壊しつつある現実をそれぞれの手法で写し取り、間接的にその傾向を批判しようとしたとしても、文学の本質としてその批判はまったく有効でない、ということだ。そして作家たちもそのことを意識している。

歴史を見ればわかるとおり、人はいつも、それとわかっていて目の前の地獄にはまる。それでも、モーリス・ブランショ(とここで相も変らぬヌーベルクリティークの大ボスの名前を出すのは少々はばかられるが・・・)がかつて注意を促したように、「主体とはなにか?」「いま主体はどうなっているのか?」という問いを開かれたものとし続けるかどうかを決めるのは、われわれ自身の問題だ。


<参考URL>
退屈帝国blog……蓮實重彦の「サッカー批評」の誤りについて考察している
http://www.taikutsuteikoku.org/blog/archives/000027.html