いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

『となり町戦争』三崎亜記

前回の更新からあまりにも時間が経ってしまったので、自分的にフェイドアウトしてしまわないために、なにか書きます・・・(我ながらひどい理由)。

えっと・・・なぜかベストセラーの話題。
角田&阿部の直木賞芥川賞コンビなどに混じって、三崎亜記という新人作家の『となり町戦争』ISBN:4087747409 がランクインしている。これは大健闘と言っていいのではないだろうか。

高橋源一郎がウェブで公開している日記で絶賛していて、その文句がそのまま(未確認です)帯に書いていて、そういうことの影響はあるのだろうが、中身がとにかくおもしろいのがやはり大きい。

底の知れない大きな(というか大きいかどうかもわからない)世界を描くために、そこへの「入口」を丁寧に描く、という手法がある。典型的なのはカフカの『城』や『審判』だろう。カフカが描いたのは、世界そのものではなく、その世界への入口の具体的な姿だった。具体的な描写の積み重ねによって、「大きなあいまいさ」を表現する方法、といってもいい。

三崎亜記がここでもちいるのもその手法だ。「香西さん」によって注意を促される、「姿の見えない戦争の気配」、というのが、戦争への入口にあたるものだろう。三崎亜記はエンターテイメント文学的気配りをきかせながら、「カフカ的」な世界をうまくつくりあげている(わたしにとって「カフカ的」というのはほめ言葉です、一応)。とくに役所の描写が細かく、グロテスクなユーモアをかもし出しているという点で、『審判』によく似ていると思う。

「ひとりの女性を足がかりにして、わけのわからない世界を探索するための足がかりとする」という点に関しては、『城』と共通している。

ミラン・クンデラだかが言っていたが、文学作品が「カフカ的」であることは重要だ。三崎亜記のエラいところは、「カフカの真似」をまったくせずに「カフカ的」な世界をつくっていることだ。

この作品では、「たまたま」描くその世界が「戦争」だったということ。「戦争」に対するカフカ的なアプローチがこれだけ大きなインパクトを与えたというのは、ある意味象徴的だ。それだけ、従来の「戦争観」が固定化されていた、ということの裏返しだろうと思う。

戦争ではたくさんの人間が死ぬ・・・ほとんどの人間はそこで、倫理的なレベルで思考を停止してしまう、ということかもしれない。あるいは道義性を抜き去って、実務レベルや戦略性、陰謀、戦争の経済など、「限定的な描写」に絞る、つまり「世界への入口」ではなく「世界の一部」を描くことでことたれり、とするスタンスかのいずれかだった。どうしてそのような見方で固定化してしまうかというと、それは誰しもできれば戦争を自分の視界から遠ざけたいというのが本音だからだろう。

しかし「香西さん」とのロマンスは、主人公と「戦争」とをつなぐ重要な関係なのだが、描写や感情の表現に、ややキッツいものはあった。これは個人的な好みの問題だろうが。