いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

- テルアビブ、1998年 (7)

 陽介、美由、永館を乗せたマイクロバスは、午前九時前にホテル前を出発して、ハイエメクに向かった。バスに乗っていたのは陽介たちと運転手のほか、四谷商事の中近東・北アフリカ統括部長の水沼一郎、近江製鉄の加藤康幸、そして駐日経済公使のヨシュアの、計七名だった。ヨシュアはいかにも体力に満ち溢れた骨太の体を機敏に動かしながら、自信たっぷりに話した。
「本日の日本代表団視察では、イスラエルの誇るコンピューター産業の中核を担う企業を集めた、いわば『イスラエルシリコンバレー』にみなさんをお連れします」
 バスに乗り込んだ際に配られた印刷物に目を通していた永館は、ヨシュアの口にした「代表団」(デリゲーション)という言葉を耳にして、あからさまに顔を青ざめさせながら、英語でまくし立てた。永館の話す細切れになったような英語は、文法的にはおかしなところもあったのかもしれないが、それだけ陽介にはわかりやすく、永館の憤りは身につまされた。
ヨシュア、日本代表団というのは、僕が日本で聞いていた話ではないです。ジャーナリスト向けのツアーだと聞いて来たんです。イスラエルのネット企業を取材するツアーだと聞いて来たんです。このリストの中の、セミコンダクターとかは、興味ないです。はっきり言うと」
 これにはヨシュアも少し面食らって「もちろん、ミスター永館の希望に沿うツアーにするように努力します。明日以降、ネット企業にも回れるようにセッティングします。しかし、イスラエルの産業にとっては、インターネットと同様に、セミコンダクターやソフト開発も重要な柱なんですよ。インターネットだけではイスラエルのハイテクはわからない、とすら言えるわけです。もしイスラエルの記事をお書きになるなり、放送なりをするのなら、ぜひこれらの企業についても取材していただきたい。きっと実りの大きな体験になるはずです」と弁明とも強弁ともつかないことを言い出した。永館は納得がいかないという素振りを見せた。
 窓の外には、土とコンクリートの塊でできたテルアビブ郊外の景色が流れていた。
 その日の視察は、ボンディング(シリコンウェーハーに結線すること)の高い技術力を持つトーウェル社というセミコンダクターの工場見学から始まった。白い防塵服を着て、数メートル手前からガラス越しに工業ロボットたちの規則的な一挙一動を見た陽介は、ほとんど神聖なものを前にして裁かれるのを待つ生き物になったような、厳かであると同時に薄ら寒い空気に包まれていた。ここにあるすべてが、人間の目には見えない微細な工程にかかわっていた。見ているのに見ることはできないなにかが目の前で執り行われているとき、人は苛立つよりはむしろ、自らの無力さを易々と受け入れてしまう。そのときの陽介も同じだった。考えてみれば、眼に見えないものは、シリコンの上に印刷された回路だけではなかった。シリコンの原価、半導体チップの流通、為替相場、株価の動向、コンピューター市場そのものの浮沈――陽介にとって記事で取り上げてきたあらゆる製品やサービス、現象のすべてが、実際には陽介にとってほとんど不可視ななにかに衝き動かされていた。そして陽介は、それらをすべて見極めて「引き」のあるページを作ろうとか、新しい事業を立ち上げるヒントにしようとかいう意欲を持つことが、どうしてもできなかった。ふいに背後から肩を叩かれ、工場内を案内していたトーウェル社の社員に「ここで防塵服を脱いでください」となかば哀れむように微笑しながら言われ、陽介はようやく我に返った。

 この視察ツアー参加者の中で最年長らしい水沼一郎は、自分の義母と同世代の昭和十八年か十九年生まれではないかと陽介は勘をつけたが、実際に歳を聞くことは憚られた。陽介は、この世代の人間の特徴は、傍若無人なまでに天真爛漫なことだと決め付けていた。実母の後に家に入ってきた義母に、陽介は易々と生きるための空間を奪われてしまっていたことを根に持っていたのだ。
 水沼は、地中海を囲む地域で長らく働いてきたという自負からか、相手と握手しながら、真っ黒にゴルフ焼けした顔に皺を寄せて表すにこやかな表情に、風格を漂わせていた。視察先での質疑応答の場でも、ほとんどは大儀そうに聞き流し、最後に話をまとめるのは水沼だった。水沼は、日本側からの出資の可能性を探ろうとするイスラエル企業の期待感を、滑らかな話の運び方で往なすのだった。
 近江製鉄の加藤は、色白で小太り、銀縁眼鏡という見るからに技術者然とした男で、実際に米国で、半導体スペシャリストとして数年間働いた経歴の持ち主だった。しかし質問の内容からすると、現在は経営に関わっていることは明らかだった。加藤はたいてい、適切な質問を投げかけ、ヨシュアのいい議論相手になった。
 このツアーは、いわば彼ら二人のためにカリキュラムが組まれていたようなものだった。当初はこの二倍から三倍の参加者が予定されていたそうだが、日本からツアーに参加したのは、陽介たち報道関係者の三名だけだった。水沼と加藤が参加したのは、すでにかなりの長期に渡ってイスラエルに滞在していたために過ぎなかった。

 その日のツアーを終え、ヨシュアは日本人たちをホテル前で下ろした。陽介、美由、永館、そして加藤を加えた四人は、コシェルでない肉を食べに、加藤の運転するBMWで郊外にあるアルゼンチン・レストランに向かった。
 木造のレストランの店内は中央が吹き抜けで、その空間を囲うように二階の客席が並び、親しみやすい開放感を感じさせるのに十分だった。そこで陽介たちはいきなり、タミラと彼女の夫、そして三人の子供たちに出会った。タミラは顔を引きつらせて、形式的に「こんばんは」と言った。夫と、十八、九歳の長男とは、やや神経質そうなタミラと違って、鷹揚さを感じさせるやわらかい笑顔を見せた。
 人懐こそうな長男は、微笑みながら、なぜか陽介に握手を求めてきた。うまが合いそうな人間というものは、とにかく出会って最初の数秒でなにかが通じてしまうものだ。
「僕はアリエル・レビボ。よろしく。日本から来たんだよね?」
「ああ、そうだよ」
「遠いよね、日本は」
「うん。でも長いフライトも、空港での入国審査に比べればなんてことなかったけど」
「はは。そうだろうね」
「レビボっていう名前は、あの有名なサッカー選手と同じ名前? 関係があるの?」
「レビボを知ってるの? すごいね」
「すごいテクニシャンらしいね」
「そう。彼はグレートだよ。あのさ、明日、クラブがあるんだ。よかったら来てよ」
 アリエルは、自分の荷物の中から、コピーしたフライヤーを抜き出して陽介に渡した。翌日の日付と店の場所が書かれていた。
「トランスは好き? 女の子もいっぱい来るし」
 アリエルはニヤリとした。陽介は思わずすぐ後ろに座っているアリエルの父親を見たが、微笑んだままだった。別れ際に、アリエルは小さなマッチ箱を陽介に握らせて、満面の笑顔を見せた。
「楽しんでね」
「ありがとう」
 アリエルは再び握手を求めた。タミラは、黙って日本風のお辞儀をした。
 席について血の滴る肉を盛った皿を待ち望みながら、陽介は永館たちを見回した。
「なんかこういう話、親の前でしててもいいみたいですね、イスラエルでは」
「あはは。ほんとだよね」
「どうします、明日って書いてあるけど」
「行けたら行きましょうよ」
 加藤と美由が、怪訝そうに陽介の手を覗き込んだ。
「で、それ、なんだったの?」
「それはもう……決まってるんじゃないですか?」
「決まってるって?」
 陽介がマッチ箱の内箱を親指でそっと押し出すと、植物の乾燥した穂先のようなものが現れ、曲げられていた枝がゆっくりと白い箱の外に伸びた。
「フレンドリーなヤツですよね、妙に」
「なにこれ? 見せて」
 美由はそれをつまんで持ち上げた。
「見たことないですか? マリファナですよ」
「ええ! そうなの?」
 美由が大げさに驚く姿に、永館も加藤も、興ざめしたような視線を向けていた。
「あとで試してみましょうよ。一本くらいは巻けるんじゃないかな」
「まずいんじゃないの?」
 加藤は、不快な様子を隠さなかった。美由は陽介の顔を覗き込んで言った。
「小埜さん、こういうの吸ってるんだ? 不良だぁ」
「吸ってるって……一回だけですよ。そのときは完全にバッドトリップで、床に這いつくばってないといられない状態になっちゃって……向いてないな、って思いましたよ」
 これには一同が笑った。

 ホテルの前で加藤の車から降り、ロビーに入ろうとしたところで、陽介は「俺、ちょっとタバコ屋に寄ってから帰ります。例のものを巻く紙とタバコを調達しに」と言った。
「いっしょに行きますよ」
「ほんとに? じゃあ……歩いて五分くらいのところにあったと思うので」
 陽介と永館は、昨夜、二人で同じ道を歩いたことは、美由には言わなかった。タバコ屋の蛍光灯の光が、煌々と暗い街路に広がっていた。陽介は、葉タバコとジョイント用の長い紙を買い求め、さりげなさを装いながら、店番の若い男に聞いた。
イスラエルでは、その辺でマリファナ吸ってたら、ヤバいの?」
 店番は、心得たとばかりにいたずらっぽく笑って快活に答えた。
「外でおおぴらにやらなきゃ、ぜんぜん平気だよ。家の中とかだったら、なんにも気にすることないよ」
「OK。ありがとう」
 帰り道を歩きながら、美由はしきりに周囲を気にしているのを見て、陽介は言った。
「三人いるし、とにかくいきなりぶっ殺されたりすることはないでしょう」
「それ、根拠はないですよね」
「そう、根拠はないですね」
「怖い、かも」
「はは……まぁ、夜だからテロがないだけいいって考えると気楽ですよね」
 三人はホテルに着いた。陽介は指を二本立ててタバコを吸う真似をして、「永館さんはどうします?」と聞いた。永館は眠いので部屋に帰ると言った。また、例の「夜の取材」に行くのだな、と陽介は得心した。じゃあ俺は俺で、別の夜の取材をするだけだ、と。
「小埜さん、わたしには聞かないの?」
 エレベーターに乗り込みながら美由が言った。
「それは愚問ですよね。吉村さん最初からノリノリだから」
 永館は三階、六階、七階のボタンを次々に押しながら、美由を冷やかした。
「あ、ひどーい……じゃ、あとで」
 美由は会釈して、三階でエレベーターを降りた。
「また、行かれるんですか?」
「そうですねぇ。かなり奥が深そうですから。小埜さんはどうします?」
「僕はもう、彼女にジョイント渡してから寝るだけかも」
「吸わないんですか?」
「さっきも言ったんですけど、ほんと体に合わないんで」
 永館が、一瞬、陽介の瞳の奥を見据えるように見て、ニヤリと笑った。
「まぁ、ほどほどに、ということで」
「はい、お互いに」
 陽介はエレベーターを降りて廊下を進んでいく永館の背中を眺めながら、すでにペニスが勃起し始めているのを感じていた。

 シャワーを浴びるとすぐ、陽介は美由の部屋に電話をかけた。美由はワンコールで出た。
「どうします? そちらにいきます?」
 美由は躊躇なく答えた。
「うん、そうね、そうしてもらえると」
 陽介は、紙の詰まった箱、タバコの包み、ライター、そしてマッチ箱をそのまま片手に持ち、タブロイド紙を脇に挟んで部屋を出た。ドアを閉めたあと、すぐにまた部屋に戻り、トランクからコンドームの小箱を取り出し、ポケットに忍ばせて再び部屋を出た。
 美由の部屋のドアをノックし、内側から美由の手で開かれると、シャンプーのせいか化粧品のせいかわからないが、花の香りが漂い出た。美由は薄青色のシルクのパジャマに着替えていた。
「おじゃまします」
「はい。どうぞ。ちらかってますけど」
 陽介は机の上に新聞紙を広げ、椅子に腰掛けてマリファナの花を細かくちぎり始めた。美由は肩越しに、タバコの葉とちぎったマリファナの花を混ぜ合わせて白い紙に巻いていく陽介の手つきを見ていた。
「なんか、やっぱり慣れてるっぽい」
「そんなことないっすよ。タバコを巻くのは、別の問題だし」
「なあに? 別の問題って」
「タバコはしょっちゅう巻いてたけど、ジョイントは一回だけだっていう話」
「タバコも普通は巻かないけど」
「なんか……ぶっといのができちゃった」
 陽介は巻き上がったジョイントを口に咥えて先端に火をかざしながら、せわしなく息を吸い込んだ。
「はいどうぞ」
 美由はベッドの端に腰掛けて、受け取ったジョイントを吸った。
「ん……はぁー……おいしい」
「あぁあ、そうやってただ燃やさないで、一息吸ったらこっちに回して」
「節約するのね」
「一本しかないし」
「タバコよりおいしいね」
「そう? ほとんどタバコなんだけど」
「まぁ、そうね……なんか、ぜんぜん平気」
「いやいや……」
 ジョイントは三分の一ほどがすでに灰になっていた。陽介は、煙をなるべく肺に吸わないように、口の中に溜めて吐き出しながら、マリファナの作用が体に及び始めているのを感じていた。
「そう? タバコだけでも、少しクラクラするから」
「じゃあ、ちょっと立ってみて」
 美由は、ベッドから尻を少しだけ浮かせた途端、一気に床にへたり込んだ。陽介もそれに合わせて、机とベッドの間の狭苦しい場所に、座り込んだ。
「うわー、だめ、これ」
「一気に来てるね。大丈夫?」
 美由は陽介の肩に両手を置いたまま、うつむいて頭を沈めた。陽介は美由を抱きかかえて、ベッドの枕に寄りかかるように座らせ、さらにジョイントを薦めた。
「まぁ、死にはしないと思うんで……あと少し、吸っちゃいましょう」
「うん……」
 陽介は尻の端をベッドの角に乗せ、美由とジョイントを小刻みに交換し、2センチほどを残して灰皿にねじりつけた。
「一仕事終えた、って感じですね」
「目の前で灰色の大雨が降ってるみたい」
「それヤバすぎだよ」
 陽介はふいに、パジャマの上から美由の乳房の上に手のひらを置いた。美由は一瞬放心したあと、力なく陽介の手を両手で振り払う動作をした。陽介の手は、弱い力で乳房をつかんだまま押し付けられていた。陽介の腕に爪を立てて掴んでいる美由の両手の指先には、力が入っていなかった。陽介はいったん乳房から離した手で、美由の手首を握り、ベッドに押し付けた。左手は、果物に被せられたラップをはがすように、パジャマのズボンとショーツを引き剥がし、美由の白い尻を剥き出した。腰から尻にかけての肌に強い張りがあり、陽介には意外に思えた。体をつなげながら、陽介はその尻を数度、平手打ちした。それでも、美由の開かないほうの瞼は、磁器の破片のように動かなかった。美由は押し殺した嗚咽のような低く短いうめき声を、間隔を置いて、小さく開いた唇の間から漏らしていた。

 翌朝は、七時半に集合して、マイクロバスでハイファに向かった。二つのセミコンダクターと、工業用ソフトの企業を訪問したあと、さらに永館のリクエストに答えて、ストリーミング用ソフトを開発している企業にも訪れた。
 ハイファに向かう高速道路を走りながらバスの窓外を流れる風景は、単調な土漠と丘だった。例外といえば、時折通過するキブツと、丘の表面に、平屋の家が密集して張り付いているアラブ人居住区だけだった。
 美由には、特に変わった様子はなかった。永館とヨシュアのやり取りを聞きながら、口を押さえて笑いさえした。
 水沼は陽介たちに向かって言った。
イスラエルは、よく知られている東欧系のアシュケナジムと呼ばれてる連中が、エリートとして社会の頂点に立って、牛耳っている国なんだよね。その下にもともとスペイン系のセファルディム、さらに中東系でアラビア語を話すミズラヒムがいるんだけど、少なくとも下から十パーセントくらいの人たち、これはもう、どうしようもない人たちなんだよ」
「どうしようもないっていうのは、どういうことなんですか?」
 永館が聞いた。
「どうしようもないっていうのは、まず働かない、そして面倒を起こす……要するに、イスラエル社会のお荷物だね」
「つまり、六百万人の人口のうち、六十万人は労働力としては期待できない、と?」
「そう、まったく駄目。この人たちは」
 水沼は、吐き捨てるように言った。どうやら日本の商社は、投資先としてのイスラエルそのものを見切っているらしい――窓から、土が剥き出しになった山肌に苔のように張り付いている、孤立したアラブ人たちの家並みを注視しながら、陽介は思った。
 ほどなく、ハイウェイを挟んでマイクロソフトの工場の向かいに伸びる土漠の向こうに、ハイファの海が陽炎になって浮かんで見えた。   (以下続)