いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

- テルアビブ、1998年 (6)

 翌朝五時を回るころ、陽介はホテル・ルネサンスのロビーで籐椅子から立ち上がって出発しかかったときに、エレベーターから顔の前で手を合わせながら歩いてくる美由の姿を見た。
「ごめんなさーい。やっぱり無理って思ったんだけど、来ちゃった……すごく待ちました?」
 美由はタンクトップにショートパンツ、スニーカーという服装だった。ショートパンツの裾から白い脚がまっすぐ伸びていた。
 遊歩道に人影はほとんどなかった。広い砂浜はなおさらだった。斜めから射してくる日光が美由の着ている白いタンクトップに反射して眩しかった。昨日したのと同じように、陽介はプラスチックの椅子の山から二つを持ち上げて白い砂の上に置いた。砂を黒々と染めてかすかに前後している波打ち際の揺らぎのほかには、波の立つこともない海を見ながら、陽介はTシャツとパンツを脱いで海水パンツ一枚になった。美由もそれに習って脱いだ服をたたんで椅子の上に重ね、水着姿になった。足首まで水に浸かったとき、美由はよろめいて陽介の肩につかまった。二人の裸の肌を、朝陽がじりじりと焼き始めていた。
 美由は、開いているほうの目を眩しそうに細めて、光の粒を跳ね返している水面を見ていた。落ちるように美由が頭を水面の下に沈めたとき、陽介は、美由の目に海水が沁みるのではないか、と思った。しかし、頭を浮かび上げた美由は、二、三度激しく頭を左右に振ったのち、何事もなかったように泳ぎはじめさえした。
 二人は、頭を水面から出して、並んで泳いだ。
「水が……温いね」
 息継ぎを二度しながら、美由が言った。
「ずっと沖まで、この調子ですよ」
 美由は、水底に足を着いて立ち上がった。鳩尾のすぐ下まで海水に浸し、濡れた二の腕を光らせながら、平泳ぎをしている陽介の、黒い脳天を見た。
 水平線上をゆっくり移動していく貨物船が見えた。水底に足を着いて歩きながら、船を指差して美由は言った。
「どこの船なのかな」
 陽介も足を着いて、立ち上がった。
「どこの船って、船籍のこと? 船籍って、きっとメチャメチャだろうから」
 美由はクスクス笑った。
「メチャメチャなの?」
「そう、メチャメチャ。ギリシャかもしれないし、ノルウェーかもしれないし、ってこと」
「わたしが知りたいのは、どこの港を出てどこの港に行くかってこと」
アレキサンドリアを出て、イスタンブールまで」
「ほんと?」
「……わかるわけないじゃん」
「そうだよね」
「どこからどこへがいい? 吉村さん的には」
「わたし的に、どこからどこへって、決めていいわけ?」
「いいんじゃない? 決めるのは勝手だし。勝手に言ってればいいだけの話だし」
「あ、その言い方、やな感じ」
「そーかなー」
「そうだよ」
「じゃあ、わからない。永遠の謎ってことで」
「永遠の謎なのね。すぐ目の前の海を進んでるのに」
「でもそれって、船だけの話じゃないよね」
「どういうこと?」
「すぐ目の前を通り過ぎていくものが、どこから来てどこへ行くかなんて、わかるわけないし。たとえば俺が日本に帰って、新宿南口の横断歩道の前で吉村さんを見かけたとして、吉村さんがどこから来てどこへ行くかなんて、わからないからね」
「呼び止めて聞けばいいじゃない」
「『どなたですか?』とか言われそうだから、声かけないかも」
「ずいぶん気が小さいのね」
「俺がヘタレってことすか、それ」
「ふふ。そう」
「話しかけづらい雰囲気だった、ってこともありうるし」
「いやなこと思いつくのね」
「そうかな」
「わたしが六本木の交差点で小埜さんを見かけたら、どこから来てどこへ行くのか、だいたいわかりそうだけど」
「へええ、どこに行くんですかね、俺は」
「いかがわしいところ」
「なんすかそれ。だいたい六本木なんて、仕事以外で行くことないですから」
「そうなんだ。意外に真面目なのね」
「真面目っていうか、普通だと思うけど」
「わたしの会社の営業の人とか、よく六本木のお店の女の子の話してるよ」
「はは、いかにも堅そうな新聞社でも、営業マンはそんな感じなんだね」
 陽介は、先ほどから陽の高さを目測していた。ずいぶん沖まで歩いてきたが、海面はまだ美由の鳩尾より下だった。
「戻ろうか、そろそろ」
「うん」
 二人は百八十度方向転換して浜に向かった。砂浜と、まばらに建っているホテルやビルだけが見えた。海水は濁っていた。水位が腰まで下りてくると、かすかな波に後ろから尻が押されるような機がした。陽介は海水で湿った美由の手を取って進みながら、美由の指の腹や手のひらの皮膚の薄さを感じていた。ときおり美由はバランスを崩して、陽介の手を強く握って体を支えた。お互いの腕と腕が触れ合うときには、美由の肌の柔らかさが一層強く伝わってきて、陽介は戸惑った。昨夜触れた二人の女、美薗、美由の肌触りを次々に思い浮かべてみた。ひとつだけ確かだと思われたのは、皮膚から小片を切り出したとしたら、その中では美由の皮膚が一番軽いだろうということだ。
 水位はようやく足首のすぐ上まで下がった。美由はバシャバシャと水を蹴りながら歩いた。陽介は、美由の真似をして水を蹴り上げ、しぶきをわざと美由にかけた。
「……もう! やりやがったなぁ」
 美由のその言葉が、水を蹴り上げる陽介の脚に拍車をかけた。さらに水しぶきを浴びながら、美由は腕を振り回し、足を蹴り上げて陽介に水をかけ返した。ほんの数秒、そんな水のかけ合いを演じたのち、砂浜に突き立てられた杭が満ちた潮に土台を崩されて倒れるように、片足を前に振り上げた格好のまま、美由は仰向けに倒れた。肩まで水に浸した美由は明らかに度を失い、手をバタつかせ、走りよって抱き起こそうとした陽介の手も振り払った。ようやく美由の背中と太腿の後ろに両腕を回した陽介は、美由の体を抱き上げた。美由の体からは先ほどの強い反発力を全て失って陽介にしなだれかかった。
「吉村さん、あの……」
 大丈夫ですか、と美由の顔を覗き込もうとした陽介は、美由が肩を小さく震わせて静かに泣いていることに気づいた。
 砂浜に戻り、無言のままシャツとショートパンツを見につけたあと、美由は「気にしないでね。理由はそのうち話すから」とだけ言った。   (以下続)