いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

- テルアビブ、1998年 (5)

 ホテルに着いたのは、十時前だった。ロビーを歩きながら、陽介の脚は、ゴラン高原産の軽やかな白ワインの酔いが回ってもつれ、躓いた。永館も美由も、それが面白くてたまらない冗談のように笑い始めた。
 一人だけ残っていたフロント係の若い、髪を短く刈った男が、三人の様子を見ていた。
「小埜さん、そんなんで、明日の朝、走れるの?」
 美由は、なかなか笑うのをやめなかった。
「走る? 泳ぐだけじゃなくて走りもしたんですか? それ元気すぎ」
「わたしも明日、走ろうかな」
「無理無理」
「なんでよ? 永館さんもいっしょに走ろうよ」
 エレベーターの扉が開くと、三人は譲り合ってなかなか中に入ろうとしなかった。
「まぁ、とにかく、5時半にロビーに集合。そのときにいない人は置いてきぼり、ってことにしませんか?」
「本気ですか?」
「マジマジ」
「はは……まぁ僕は、ほんとにたまたま、なにかの間違いで目を覚ましたら……でも無理だろうなぁ」
「ははは」
 美由は三階で降りた。永館の部屋は六階、陽介の部屋は七階だった。
「小埜さん、これからどうします?」
「これから?」
「僕は夜の町を取材しに行こうと思うんですが」
「はは……それも仕事?」
「国も女も、夜の顔も見ないとわからない、と思うんですよ」
「夜の顔を見ればわかるもんですか?」
「まぁ、見ないよりは」
 陽介は、美薗の「夜の顔」と、わからないことだらけの結婚生活を思い起こして、内心で苦笑した。
「なるほどぉ、そーかもしんないっすね」
「どうです、行きませんか?」
「うーん……」
「ね、そうしましょう。まだ十時だから、一通り取材したあとでも、一時には寝られますよ。あとで部屋のほうに電話しますから」
 まだ懲りずに「取材」という言葉を使う永館にツッコミを入れたい気持ちを抑えながら、閉まるエレベーターの扉の向こうに消えていく永館の後姿を、陽介は見届けた。
 陽介が部屋の入り、ベッドの上に取材用の道具が入ったナイロンのリュックを放り投げた途端、電話が鳴った。握った受話器からは、永館ではなく、美由の声が響いた。
「おつかれさま。明日の朝、ほんとに行くんですよね? いま、目覚ましをセットしようと思って、電話させてもらったんだけど」
「どうもおつかれさまです。明日すか。ええ、行くつもりですよ」
「わたしも行けたら行きます。自信ないけど。日本でも五時に起きたことないかも」
「まぁ、そうですね」
「じゃ、おやすみなさい」
「あ、はい。おやすみ」
 受話器を置くとすぐに電話が鳴った。今度は永館だった。美由と話していたことを勘付かれたかな、と陽介は気にした。
「あぁ、どうも、おつかれさまです」
「おつかれさまです。で、もうすぐ出ます?」
「いや、シャワー浴びてから三十分後にロビーで、ということにしませんか?」
「ロビーで、吉村さんに会ったりして」
「はは。まぁ、大丈夫でしょう」
 陽介は、自分の笑い声の響きが安定しているな、と思った。低い音域のまま、音程があまり上下せずに、ただ「げらげらげら……」と続いていた。
 シャワーの湯が乾ききった唇に沁みて痛かった。素肌の上に白いボタンダウンのシャツを羽織り、ジーンズを穿いた。頬が火照った。
 ロビーに着くと永館が籐のソファーから立ち上がった。白い歯を見せて笑ったので、肌の黒さがいっそう目立った。今日一日で、また日焼けしたな、と陽介は思った。
「小埜さん、なにか情報もってます?」
「いやまったく。どうしたらいいんでしょうね。フリーペーパーにはエスコートサービスの広告がいくらでも載ってるんだけど……いかがなものか、て感じですよね? 二百米ドルとか言ってるし」
「高い。完全に観光客向けですね。そういうのはあんまりそそらないんだよな」
「あぁ、なるほど」
 二人はホテルの自動扉を出て、街灯が照らし出す人っ子ひとりいない通りを歩き始めた。
「とりあえず……ここをまっすぐ行ってぶつかる目抜き通りっぽい道まで歩いてみましょうか」
 商店街を進んでいっても、二人は誰ともすれ違わなかった。昼間の過熱した大気に較べると、ひんやりした夜気は心地よかった。四、五分歩くと、永館が「目抜き通りっぽい道」と呼んだ通りに着いた。ここはちらほらと人影も見えたし、ほんの数えるほどだが、薄暗い光を窓から漏らしているバーが見えた。たまたま二人が通りかかった交差点のバーは、昼間はコーヒーを出しているような、何の変哲もない店で、かなり店内の光を落としていたが、二、三組の客がいるのがわかった。
 陽介と並んで海があるはずの方向に向かって歩きながら、永館が口を開いた。
「しかし、こうやって歩いていても埒が明かなそうですね」
「タクシーとか拾いましょうか」
 陽介は、ああいう普通の店でビールの一杯でも飲んで帰るのも悪くないな、と思っていながら、口ではそう言った。
「そうしましょう。タクシーの運転手に聞くのが一番なんですよね、経験上」
「車、少ないんだけど……流しのタクシーなんているんですかね?」
 二人を追い越していく米国製の乗用車を目で追いながら、陽介は答えた。
「うーん、難しいかもしれないけど、この先で交差する並木道は、昼間はバスも通っていたし、この通りよりはマシかも」
 結局二人は、ほどなく並木道に出て、ホテルとは反対の方向に向かって歩き始めたときに、タクシーを捕まえた。運転手は、五十歳代らしい女だった。永館は前に身を乗り出して運転手に英語で話しかけた。
「すごくバカな質問をしますけど、ナイトクラブとか、ストリップとか、そういうナイトスポットみたいな場所が集まっているのは、どこなんですかね?」
 運転手は明らかに当惑していたが、それが仕事だとばかりに、不快な素振りはみせず、イギリス風の見事な発音の英語で答えた。
「わたしは本当に、詳しいことはよくわからないんだけど……ブローかしら」
「ブロー! ブローっていうんですか、そこは」
 永館は、取材のときにするように、耳にした言葉を口に覚えこませるために何度も声に出して繰り返した。
「ええ……ダイヤモンドセンターのそばの」
「ブローに……ブローに行ってください!」
 運転手は、それ以上なにも話さなかった。
「ブロー……彼女、ブローって言いましたよね?」
「ええ、そうですね」
 陽介は皮肉ではなく、永館の「取材」に感心していた。
「Hollywood」と書かれた横長の派手なネオンの看板を掲げた店の前で、タクシーが停まった。永館は、ユルリケという名のその運転手に頼んで名刺までもらい、「帰りは何時になるかわからないけど、明日電話をかけます」と言って払いを済ませ、車を降りた。来た道を振り返ると、金網で囲われた空き地に面したとおりの歩道の端に、痩せて背の高い白人の街娼が立っていた。
 Hollywoodの入口を入り、映画館の切符売り場のようにガラスで仕切られた受付で、入場料の五十シュケルを払った。中は、二百平米はありそうなガランとしたホールで、味も素っ気もない長テーブルが、旅館の食堂のように五列ほど並んでいた。客はまばらで、それぞれ客ひとりに女ひとりが、安っぽいプラスチック製の椅子に並んで腰掛けたり、腰掛けた客の膝の上に女が跨ったり、腰を前後に揺すったり、シャツを捲り上げて乳房を客の頬に押し付けたりしていた。
 壁際には数人の女が立っていた。陽介たちに向かって媚を売っているいかにも陽気そうな女、ただ退屈そうに中を眺めているだけの者もいた。陽介は、背の高いきれいな女が多いな、と思った。しかし彼女たちがユダヤ人なのか、あるいはユダヤ人を騙った生粋のスラブ系なのか、あるいはもっと別の場所からやってきた女たちなのかは、まったく見当が付かなかった。
 さっそく二人の女が、向かい合わせに腰掛けている陽介と永館の両側から近づいてきてオーダーを聞いた。永館には口が大きくて陽気な女がつき、陽介にはやや歳のいった、頼りがいがあるといったほうがよさそうなほど落ち着いて見える女がついた。陽介が店に入った時から気になっていた、短い黒髪で、長身の美しい女は、陽介のほうを見向きもしなかった。
 女は英語が話せないようだった。ただ、同意を求めるように、陽介の目を覗き込み、太腿の上に跨った。判で押したような笑顔のまま、陽介の鼻先から少し離れた空中で、右手の親指と中指をこすりあわせて、チップをせがむ素振りを見せた。言われるまま、五シュケル紙幣を握らせた。そのたびに女は、肉屋の娘が図りに載せた細切れの肉片を取り除いたり付け足したりしながら、これでいいのかと聞きなおす時のように、キスしたり股間を押し付けたりするたびに、陽介の目を覗き込むのだった。
 永館を見ると、やはり両膝の上に跨った女の腰を、両手で抱きながら、陽介の視線に気づくと、白い歯を見せて幾分引き攣った笑顔を見せた。永館はそうして笑いながら、顎を引いたまま、不自然なほど頭を後方へと引っ込めていた。それはまったく、笑いというものが本来持っている「拒否」の意味を表すのに、十分すぎる例証のように見えた。永館のような男でも、この種の冒険には恐怖を感じ、その恐怖のおかげで、今日まで生き延びてこられたのだ、と陽介はぼんやり考えていた。
 二本目のビールを飲み終えたところで、陽介は先に席を立った。外に出ると、正面に中層の古びたビルの壁が、黒く聳え立っているのが見えて、寒々とした感覚を呼び覚ました。
「すこしこのあたりを、回ってみましょうか」
 永館はHollywoodでのビール二本分の娯楽では、とても満足できない、といった様子でそう提案した。
「探検ですね」
 陽介はわざと陽気な声を出した。
 二人は高層ビルの周りを回る道を、並んで歩いた。道沿いには、空き地が目立った。何軒かネオンの看板を掲げた店があったが、どれもいかがわしい場所だということだけはわかった。ある店などは、戸口を開け放しにして店内が通りからでも覗くことができた。客は一人もおらず、肌を露出した服装をした女たちが二人を見て、やる気がなさそうに手招きをした。永館と陽介はどちらともなく、いったん止めた足を再び持ち上げて、夜道を進んだ。
 Hollywoodの前に戻るのに十分もかからなかった。永館は向かいにある五階建てのビルのちょうど真ん中あたりで明滅していた看板を指差した。
「あそこに、しませんか?」
 永館は最初から、そこに行くつもりだったらしい。陽介はその看板が発している極彩色の光を、目を凝らして見た。ネオンの飾りの中央に、「Zoo」という文字が見えた。
「Zooっていうのは……どういうセンスなんですかね」
「そのまんま、ってことじゃないですか?」
 口をややひん曲げている陽介の表情を、永館はやや不満そうに見た。
 看板が発する光がビルの内側のかなり奥深くまで、そして下の階の途中まで届いているのが、陽介にはわかった。どうやらこのビルの内側には、吹き抜けのかなり広く高いスペースがあるらしい――そう思うと、陽介の胸の動機は不思議なくらい高まった。
「行きましょう。おもしろそうだ」
 外廊下がそのまま扉のような仕切りもなく、ビルの中央までつながっていた。陽介が思ったとおり、ビルの中央には吹き抜けがあり、それぞれの階の各部屋は吹き抜けを囲う外廊下に沿って並んでいた。陽介は新宿西口のガード近くの、ブルセラショップのあるマンションを思い出した。そのマンションも、あたかもそれが自分の心の静けさででもあるように、外部の喧騒から吹き抜けの空間を内側で守るように抱いていた。そのマンションの一室で営業していたブルセラショップで、陽介は門前払いをされたのだった。店員は「冷やかしはおことわりだよ」とはっきり言った。
 階段で三階まで上がり、スナックのそれのような小さな看板の下の入口を入った。天井の低い殺風景な室内には、小さなテーブルと赤いビロードのソファー以外は、家具らしいものは何もなかった。五人ほどの女が腰掛けて、陽介と永館のほうに顔だけを向けた。
 陽介は五十米ドルを払い、女を物色している永館を残して、ひとりの女と別室に入った。肌が白く、なで肩の小柄な女だった。服を脱ぎ、ベッドの上で向かい合うと、陽介は女の瞳を見た。色あせた、生乾きの砂のようなグレーの瞳だった。曇天の空にかざした碁石のような瞳孔は、何かを見ているという感じを与えなかった。
 女の唇はせわしなく動き、小声でひっきりなしに何かをしゃべっていた。ヘブライ語イディッシュ語でないことは、なんとなくわかった。以前、フランスで知り合ったポーランド人の女が同郷の友人と話していた言葉に似ていると思った。サンドリーヌと名乗っていたが、おそらく偽名だろう。サンドリーヌは当時まだ三十歳前だったが、本当の歳を聞くまで、陽介は彼女が四十歳くらいだと勝手に思い込んでいた。眉間と額に、深いしわが一筋ずつ刻まれていたせいかもしれない。
 サンドリーヌは、フランスに数年前から出稼ぎに来ていた。五つ以上も仕事をもっていた。ベビーシッター、食品店の留守番、部屋の斡旋、通訳、ツアーコンダクターなどだった。毎日、二つの仕事をこなした。なんのためにそんなに働かなければならないのか、陽介にはわからなかった。サンドリーヌは料理と暴力のことを、よく話した。料理と暴力という組み合わせは唐突だったが、実際に陽介が食卓のテーブルやベッドの中で耳にしたのは、どの国ではこの食材をどう味付けるべきだとか、ポーランドに住んでいるときに近所で実際に夫に殴り殺された女の話だった。
 サンドリーヌはユダヤ人だったのだろうか……陽介の首に抱きついて目をまっすぐに見ながら何事かを小声でつぶやいて白い乳房を揺らし続けている女を見ながら、そんな疑問に気づいた。それも、今となっては確かめようもないし、確かめたところで何になるわけでもなかった。
 女の肌の表面は、冷たかった。陽介が腰の動きを速めていくと、女のつぶやき声は大きくなり、しゃべる速度も速くなった。女が声を高くしているのは、性的な興奮というよりは、誰か身近なものを呼ぶためのように聞こえた。何か問題があるのではないか、店の用心棒たちか、捜査官かがドアを踏み破って殺到してくるのではないか、と陽介は気が気でなかった。
 ことが済み、背広姿の大柄な男の脇をすり抜けるようにして廊下に出た。通りは相変わらず、ガランと人気のないままだった。陽介は空き地の前の歩道に無造作に置き忘れられたコンクリートの塊の上に腰掛けて、永館がZooから出てくるのを待つことにした。数十メートル離れた先には、背の高い街娼が、反対側の路肩の上に立っていた。先ほどと同じ女かどうかはわからなかった。陽介は夜空を見上げた。この空は、東京までつながっているのだな、と考えて、自分のナイーブな思いつきに苦笑した。
 五分ほどたったころ、黒いビルから永館が出てきて、トレードマークの笑顔を見せた。そのときになって初めて、陽介は、永館が「夜の取材」には録音機を持たずに来ていたことに気づいた。さすがに興奮している自分の鼻息を録音する必要は感じなかったらしい。この通りの暗がりは、MDレコーダーのLEDの光がよく似合いそうなのに、と思った。  (以下続)