いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

- テルアビブ、1998年 (4)

 三人の午後の予定は、夜六時からテルアビブの旧市街、オールド・ジャファのレストランでの会食だけだった。イスラエル商工会議所所長のラビ・イツハク・カハネ氏の招待だった。タミラはレストランの場所と連絡先を書いた紙を永館に手渡すと、脈略もなく、自分が今日、急に入った仕事と子供の用事とでいかに忙しいかという愚痴をこぼし始めた。美由は顔を伏せて、吹き出していた。タミラは、自分がこれから夜まで日本人に付き添ってテルアビブを案内するのが筋だと承知していながら、そのようなやっかいで余計な仕事からはオサラバしたい、というわけだった。
「オールド・ジャファへは自分たちの足で行きますよ。三人ともいい大人なんでね」
 陽介が気を利かせたつもりでそういうとタミラは、「歩いてじゃなくてタクシーで行ったほうがいいですよ。少し距離がありますから」と答えたので、三人は一様にクスクスと笑った。タミラは納得がいかないように、眉を上げた。
 ホテルの前でタミラの車から降ろされた三人の間では、海岸通りのどこかのカフェで軽く食事をしようということに決まった。砂浜沿いの遊歩道に出ると、美由は素直な声で「すてき」と言った。陽介はその道を、まるで初めて会った日の夕食から朝食までずっと一緒にすごした女のように身近に感じていたから、あやうく美由に「そうでしょう?」と誇らしげに答えそうになった。
 永館が日焼けした顔から白い歯を浮き出させて言った。
「なんか、道行く女の子たちがみんなキレイですよね! なんていうか、中東の濃いものとヨーロッパの薄いものがいい感じでブレンドされてて」
 陽介には、永館のいう「濃いもの」と「薄いもの」が、ひどく淫らなことを指しているように思えてしかたがなかった。美由は、時折すれ違う、たいていはタンクトップにパンツ姿の若い女たちの顔や体を、土産物を見るような目でまじまじと見回していた。
 永館は向こうからやってくる女たちに近づいて、写真を撮らせてくれと、交渉し始めていた。永館は、自分がイスラエルに取材に来たカメラマンで、いまロケハンしたり町並みのスナップを撮っている、と嘘を言った。永館が手にしていたのは標準のレンズをつけただけのEOSだったが、もちろんそんな貧弱な装備のカメラマンは、世界中探しても存在しないだろう。陽介は、永館のそういう人を食ったセンスが、嫌いではなかった。
 永館は、女に話しかける寸前に、ウェストバッグに忍ばせているMDプレーヤーの録音ボタンを手探りだけで押していた。女たちが去ったあとで、陽介が「永館さん、RECボタン押すの超早ワザっすね」とからかうと、永館は「当たり前ですよ、仕事なんですからこれは」と真顔で答えるので、陽介も美由も吹きだした。
 遊歩道を歩いているのは、なぜか二十歳前くらいの若い女が多かった。永館はかなりの確率で女たちの笑顔をファインダーで捕らえた。EOSの標準レンズの前でポーズをつけはじめる女たちを見る美由の目は、不思議と潤んでいた。その女たちの笑顔に自分を重ねあわせ、自分の顔をカメラで切り取られ、ネットに放流されて、世界の果てまで漂い続けている様を思い描いているのだと、陽介は想像した。
 永館が舗道脇のカフェのテラスに腰掛けていた二人組の女に声をかけると、女たちは思いのほか気さくで、隣のテーブルが空いているから、あなたがたも座ればいいと誘ってきた。永館は白い歯をいっぱい見せて「それはご親切に」と答えた。陽介と美由は、ほとんど同時に、MDプレーヤーの録音ボタンを探る永館の右手の動きを目で追っていた。
 女たちは二人とも、横から見ると額がゆるやかな美しい弧を描いていた。スタンプで押したような笑顔をほころばせながら女たちが話した内容は、帰国した後に永館が、自分のホームページの『世界の美女コーナー』に書き起こした。

《わたしたちは二人とも十九歳よ。来年から兵役が始まるけど、すっごく楽しみにしてる。なんでも新しい経験をするってことは、すばらしいことだわ。訓練が辛いかも、とかそういう不安より、期待感が大きいの。男の子たちと知り合う機会も、今よりずっと増えるはずだし。そういう出会いの話も、よく聞くし。もちろんわたしたちの国にはいろいろ難しい問題が横たわっているけど、未来はわたしたちが創っていくものだから、希望を失わなければ、きっと平和を実現できるって、信じてるの》

 これに永館は、コメントをつけている。

《BRAVO! すばらしい! なんと前向きな! こんなさわやかな、美しい女性たちがいるかぎり、現在はパレスチナと激しい戦闘を繰り広げているイスラエルにも、平和への希望は絶えることはないでしょう! それを信じましょう!》

 永館の「仕事」がひと段落すると、安いスーパーでミネラルウォーターのボトルを仕入れようということで、三人は市街に入っていった。当初、「ベン・イェフダ通りで探そう」とか「ディーゼンゴフを目指して歩こう」などと、ガイドブックにほんのわずかだけ記載されていた断片的な情報を口にしていたが、すぐに自分たちがどこを歩いているのかわからなくなった。誰も地図を持っていなかった。陽介の唇の皮は、パリパリに乾燥して、肉から剥がれて反り返り始めた。三時を回っていたが、陽はまだ強いままだった。次第に街路樹や、閉店して埃まみれになった店のシャッター前の日陰に、避難したりした。三人はようやく、取り壊し中の建物の残骸で虫食い状になった商店街の中で一軒だけ開いていた食料品店で、ミネラルウォーターのボトルを、先を争うように買い求めた。
 商店街の外れに、スポーツウェアとバッグを溢れ返るほど載せた幅の広い露台を二つ並べて商いをしている赤ら顔の商人が、真正面に突っ立ったまま三人を見ていた。陽介はビニール袋に入ったユニホームを指差した。
ヘブライ語の入ったサッカーのユニホーム、渋いですね」
 すかさず商人が話しかけてきたが、それはなにかを売りつけようとするよりは、教師が質問に来た熱心な生徒に教える、といった雰囲気だった。
「これはイスラエルのプロリーグのチームのユニホームだ。この黄色のも、青のも。緑のがこの前のチャンピオンだ」
 商人は、流暢な英語を話した。陽介は、イスラエルの代表チームのユニホームは? と聞こうと思ったが、なんとなくやめた。ワールドカップでは、イスラエル代表は中東にありながら政治的な理由でアジア予選に参加するわけにもいかず、厳しい欧州予選で敗退を余儀なくされている。今年初めてワールドカップに出場した日本代表とイスラエル代表のどちらが強いかは、言うだけ野暮だ――陽介はそう思った。
 永館も美由も、サッカーには特に関心がないようだった。商人と陽介のやりとりを聞きながら、トレーニングウェアやバッグの値段を調べたり、通り過ぎる軍人の姿を観察したりしていた。そのとき見たほとんどの軍人は、二十代前半くらいの若い男だった。軍人たちの顔にはまだ幼さが残っていて、肩から提げた小銃類のいかつさとそぐわないように見えた。
 あるいはまた、私服にキッパ(鍔なし帽子)のまま尺の長い自動小銃をぶら下げて歩いている、どう見ても十八、九の男が、友だちとふざけながら歩いていたりした。
 三人は、日陰を探して歩き続けた。陽がようやく傾きかけたころ、前方に、青空に向かって突き出したホテル・ルネサンスの白壁が目の前に現れた。

「旧市街というだけあって、あっちとは建物のボロさが違いますね」
 オールド・ジャファに向かうタクシーの助手席に座った陽介は、前を向いたまま親指で、後にしてきたテルアビブ市街を示した。
「壊れかけの壁って、爆撃された跡だったりするの?」
 窓外に見入りながら、美由は誰にとなく言う。
「それはさすがに……ないんじゃないかな? ねぇ小埜さん」
「テルアビブが直接砲撃されたり爆撃されたりっていうのは……最近ではありえないから……あるとすればテロだけど。これだけ壊れた壁が多いと、それも考えられませんよね」
「建てかけってことなの?」
「いや、取り壊し中っていうか」
中東戦争当時のまま放っておかれてるってこともありうるけど。たとえばベイルートでは、内戦でグチャグチャになったあと、復興は進まずそのままだって、レバノン人の友だちから聞いたことありますよ」
「そうなんだ」
 タクシーがレストランの門の前で停まった。植え込みに挟まれた門の向こうには、米国式の平屋の建物と、その奥には、広いテラスが広がっていた。テーブルの並んだ庭といったほうがよさそうなテラスは、明らかに数の足りない白熱灯がテーブルを薄暗く照らしていた。ウェイターにカハネ氏の名を告げて照らすに歩を進めていくと、美由が「波の音……」とだけ口に出した。テラスの向こうの闇から、間近い潮騒が聞こえていたのだった。
「これから、イスラエル商工会議所のカハネ所長との会食です。ええ、ここはオールド・ジャファの外れにあるおしゃれなレストランで、すぐ近くに海があるようです。聞こえますか? 夕闇に沈んだ地中海の波の音です」
 永館がマイクに向かって、通常の話し声と変わらない音量で話し始めたので、美由も陽介も、一瞬ビクッとした。 テラスの一番奥に置かれた長テーブルの端に腰掛けていた小柄な白髪の紳士が、三人のほうに歩み寄り、右手を差し出した。カハネ氏だった。
 通り一遍の挨拶をしたのち、カハネ氏はごくあっさりと、イスラエルの産業の概略を説明し、「これを機に、イスラエルと日本の産業界、そして市場との新たな関係が発展することを期待します」と結んだ。「ユダヤの商人」というイメージからかけ離れた、カハネ氏の静かな物腰に、永館は拍子抜けしてMDレコーダーの停止ボタンを親指で押した。
 陽介が口を開いた。
「あなたは普段、どんなお仕事をされているのですか?」
 カハネ氏は、かすかに自嘲気味の微笑を漏らした。
「まず当然、商工会議所の仕事があります。しかし商工会議所では、フルタイムで働いているわけではありません。他に音楽を批評する仕事をしています」
 三人は驚きが表情に表れるのを、隠すことができなかった。
「みなさんが驚かれるのも無理はありません。商業と音楽のかかわりは、ぜんぜんないわけではないが、直接は結びつきません。しかし、イスラエルは商業の国であると同時に、音楽の国でもあるのです」
「確かに……ホロヴィッツバレンボイムユダヤ人ですね」
 陽介が思いついたユダヤ人の音楽家は、その二人だけだった。陽介は、「Jew」と口に出したのを慌てて「Jewish」と言い直した。
「わが民族は、西欧のクラシック音楽の根幹に関わる伝統をもっているのです」
 陽介には、カハネ氏の言っているイスラエルの音楽の伝統がなんのことを指すのか、はっきりとはわからなかった。永館と美由は、彼らの会話にほとんど興味を失い、テラスの柵の代わりをしている生垣の向こうの海を指差したりしていた。
「彼らは……ドイツの音楽も演奏するわけですが」
 カハネ氏は、陽介のぶしつけとも言える質問にも、静かな表情を崩すことはなかった。
「ドイツは音楽にとってもっとも豊かな源泉です。ドイツの芸術もイスラエルの芸術も、互いに排除しあわないばかりか、緊密に織り合わさって、より高い芸術が生まれているのは、まぎれもない事実です。こうしたことからも、平和というものの、積極的な意義が認められます」
 陽介の中には、カハネ氏が口にした「positive significance of the peace」という英語が響き渡り、感動のあまり瞼の裏が熱くなるのを抑えるのに苦労した。
「そうした平和への願いは、産業や技術の交流の中にも共有されるわけですね」
 永館がそう言いながら手探りでMDレコーダーの録音ボタンを再び押している手の動きと、テーブルの陰の暗闇に浮かび上がっているLEDが発する大きな赤い光輪を、陽介はぼんやりと、特に注意も払っていないのに視界の中心にそれがある、といった状態で見ていた。うつむき加減で皿に向かっていた美由は、焼いた魚の皮の上からナイフを当て、押しつぶすように切り裂いた肉を、フォークで深々と刺し抜き、かすかに開いた唇の間に押し込んでいた。
 波が穏やかに浜に寄せ、泡立つ音までが聞こえてきていた。陽介は潮騒を聞きながら、レストランには自分たちの他は年配の夫婦らしき二人連れと、中年の女性二人と男性二人の二組しかテラスにいないことに気づいた。
 闇の向こうには海があり、海の向こうには闇がある……陽介はこの潮風に吹きさらしにされている闇が、自分の目の裏に張り付いたような気がしていた。  (以下続)