いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

- テルアビブ、1998年 (3)

 陽介は一時五分過ぎを指している空港の時計を見ながら、自宅の腕時計の時刻を合わせた。紺色のヒュンダイに乗せられた陽介は、「紙に書かれていた他の二つの名前の持ち主は?」とタミラに訊ねた。
「二人とも昨夜テルアビブに着いています。あなたが空港に着いたときに紙にお二人の名前が残っていたのは、特に消す必要も感じなかったから。お二人がどうしてあなたより一日早くテルアビブに着いたのか、今日一日彼らが何をしていたかは知りません。わたしはただあなた方を送り届け、明日、あなたとミス・ヨシムラ、ミスター・ナガタテをオーカッド社まで案内するように、ヨシュア・ベン・ダビッドから言われているというだけなんです」
 タミラはため息混じりにそう一気に言い放って、黙り込んだ。陽介の質問に答えながら、自分に余計な仕事を生じさせないための手立て、それから深夜に駆り出されている鬱憤晴らしを、同時にこなしたということらしい。陽介はなかばうんざりしながら、それでもタミラをこれ以上うんざりさせないように気遣いながら聞いた。
「二人ともジャーナリスト?」
「そう、あなたと同じジャーナリストです。明日は予定表にある通り、朝十時にオーカッド社でアポイントを取ってあるので、九時三十分にホテルのロビーに集合してください」
 ホテル・ルネサンスの前で陽介を降ろしたタミラの「グッド・ナイト」という形に動いた唇からは、もう声も聞こえなかった。なぜそれほどタミラが疲れているのか、陽介には理解できなかった。

 翌朝、陽介が小広いツインの一室で目覚めると、枕元の時計が五時を指していた。「しまった」と声に出しながら飛び起きて窓辺に行き、丈の長いカーテンを勢いよく開いた。青い空と海、そして海岸沿いの公園の緑が放つ光だけが目に飛び込んだ。「やった」と小さく叫びながら、あわてて競泳パンツとタンクトップ、ショートパンツ、ソックス、ランニングシューズを身につけ、部屋から走り出た。
 ホテルを回り込んで車道を渡ると、陸上競技場二つ分はありそうな、広大な芝生の公園があり、スプリンクラーが水をまき散らしている。その向こうは見渡す限りの地中海だった。陽介は芝生の中央に立ち、柔軟体操を十分に行ってから、腕立て伏せ、腹筋、背筋、跳躍系の運動三種類それぞれ、二十回ずつ三セットを一気にこなした。朝方の太陽光線はすでに顔や上腕部の肌を焼いていた。陽介の脈はかなり上がっていた。こめかみを汗の滴が伝い顎を伝い、芝の葉の上にポタポタと落ちた。北に向かって延々と伸びている砂浜沿いの遊歩道を走ってみたくて我慢できず、休みもせずにゆっくりと走り始めた。
 カラフルな敷石を敷き詰めた遊歩道は、幅もゆったりしていて、左手に広がる砂浜、そして海の広さとあわせると、早朝の散歩やジョギングにはこの上もない環境を形づくっていた。砂浜には、ほとんど人影がなかった。遊歩道を歩く老人がときおり見えるくらいだった。息を弾ませた陽介の全身から、汗が噴き出ていた。極端に空気が乾燥し、唇の皮が角質化していくのがわかるほどだった。陽介は、身体が乾いていくという感覚がもたらす幸福感があまりにも深いので、まるで湿り気の抜けない日常生活の時間のほとんどが否定されたような、そしてそれがうれしいような気持ちがして戸惑った。
 幅の広い砂浜は、海面と白砂が照り返す光で充満していた。雑然と積み上げられていたリゾート用の白いデッキチェアのうちのひとつを抱え上げて、少し離れた場所に置いた。デッキチェアの脚先は、白砂の中に沈んだ。陽介は服とシューズをその上に置き、競泳用パンツ一枚だけになって海に入った。海面が大腿部の中央まで来ると、身を屈めて、肩まで海水に沈めて泳ぎ始めた。生温く粘りつく海水を手のひらから肘と上腕の内側で抱え、胸元に引き寄せてから後方に押し出した。沖に向かって何度水をかいても、足を砂地の底について立ち上がると、せいぜい鳩尾のあたりまでしか水に浸からないほどの遠浅だった。太陽光線は強さを増し、圧力のように、陽介の肩口の肌を焼いた。
 水面の下に腕を伸ばし、脇を締めて海水を内側にかきこみながら、陽介はさきほど遊歩道を走りながらすれ違った中年の男の身体を思い出していた。縮れて密生した黒い毛髪、眉、髭、白いランニングシャツの胸元からはみ出した胸毛、浅黒く焼けて弾力のありそうな肌が張りついた筋肉で固く太った肩と上椀、胸、腹……。ぬるい海水が舐めるように粘りつくたびに、陽介の肩や胸の肌がその男の肌に変化していくような気がした。仰向けになると、薄い海水の膜が胸の上にゆらめき、海水が体表に及ぼす作用は確かなものとなった。陽介はまるで、通りすがりの男の肌を借りて身にまといながら、三十七度ほどの温度に保たれた精液の静かな海流の中をゆっくりと進んでいるようだった。地中海の海面が触媒となって、乾ききった透明な光線が湿って濁った粘液へと変換されたみたいだ、と陽介は思った。陽介は体の芯に、晴れやかな疼きを覚え、勃起していた。

 ビュッフェスタイルの朝食の大テーブルには、白褐色のタヒナとヨーグルト、それから油気のないチーズが並んでいた。白いものが多く、彩に欠ける食卓だった。天上の高い白壁の小ホールには十組近くの客が思い思いに食物を物色していたが、食器の擦れ合う音以外は、ごくわずかな話し声しか反響していなかった。
 食事を終えた陽介が長袖のカッターシャツ一枚を素肌に着て、待ち合わせ場所である一階でエレベーターを降りたのは、約束の時間の五分前だったが、すでにタミラと、男女一名ずつの東洋人が、ロビーの籐椅子に腰掛けて、言葉すくなに会話しているらしい様子が遠くに見えた。女の片目が、話している最中にも不自然に閉じられていたので、陽介ははっとした。
「おはようオノさん。よく眠れましたか?」
 ほとんど無理に作ったような笑顔を浮かべたタミラは、まるでそれが自分が提供できるめいっぱいのサービスです、と言わんばかりに、ゆっくりとしたフランス語で陽介に語りかけた。
「おはようタミラ。あなたのほうはどうですか? そしてその……」
 陽介は会釈を始めながらまず、ダンガリーのシャツを着て頭の上にサングラスを載せた東洋人の男のほうに視線を移した。男はタミラによって欧米式に紹介されるのを遮るように、白い歯を見せて微笑みながら声を発した。
「永館です。あの……」
 陽介は永館が続けて言おうとしたことを先取りするかのように言った。
「永館さん、だったんですね。タミラの持っていた紙にはナラタテって書いてあったから気づきませんでした。あの……」
「そう、カンヌで……JBNDの小埜さんですよね?」
「ええ、そうです、そうです。miliaの会場で。その節はお世話になりました」
 陽介は永館に対して、同じ年の二月初旬、カンヌで開かれたデジタルコンテンツの見本市会場で、十分ほどの間、取材を行っていた。永館はインターネットを使用した個人ラジオ局を運営していた。取材を記事にしなかったことに永館は気づいただろうか、と陽介は気になった。陽介と永館は、他の二人の女性がシラケた様子で自分たちを見ていることに気づき、どちらともなくカンヌでの話を途中でやめた。
 陽介は、今まで目を向けることをなんとなく避けていた女のほうを一瞥して、すぐに頭を下げる会釈の動作を始めた。陽介の網膜に焼き付いた女の残像は、「中間的」という印象を与えた。美しくも醜くもなかったし、勝ち気でも気弱でも、社交的でも内気でも、真面目でも怠け者でもなかった。強いて言えば、開いているほうの小さな目には不釣合いなほど、濃く長い睫毛が印象に残った。閉じているほうの瞼は、強制的に下に引き伸ばされたように緊張して、下瞼に接着していた。時間がたてばこの鋳物のように白く滑らかな瞼の与える緊張感にも馴れてくるのだろうと、陽介は信じようとした。
 女は、「お世話になっております。東京日報の吉村美由です」と名乗りながら名刺を差し出し、常識的な微笑さえ見せた。

 タミラが運転するヒュンダイのセダンが、テルアビブの市街に走り出た。フロントガラスからは、車内の空気まで強制的に干上がらせてしまうような強い光が差し込んでいた。最初の訪問先に着くまでに、タミラは二度、ハンズフリーフォンの通話相手のために、中空に向かって声をやや張り上げてヘブライ語で話した。二度目の通話相手は夫だったらしく、最後にはタミラが怒って電話を切ってしまった。
 車窓の外を流れる風景は、ところどころに現れる白壁の鮮やかさとは対照的に、あいまいな印象しか与えなかった。七十年代ふうのデザインの中層ビルが立ち並ぶ様は、一度だけ訪れた那覇の町並みを思い起こさせた。高層ビルは数えるほどしかなく、建てかけの建設現場は少なかったし、解体中のまま放置されているような現場までひとつならず陽介は目にした。
 日本にいるときから、インテルの最新CPUであるペンティアムⅢも、マイクロソフトの次世代戦略の中核とも言えるウィンドウズNTも、ともにイスラエルで開発されたという話を、何度も陽介は耳にしていた。しかし、テルアビブの素朴な町並みを見ながら、それまでイスラエルがハイテクの先進国だと思い込んできた自分の認識に、あまり確かな根拠がないことに気づいた。
 小さな丘を越え、下り坂の途中に、オーカッド社の小じんまりとしたビルがあった。オーカッド社の前の車道も歩道も、ごく大雑把に舗装されたという程度で、路肩は出鱈目な歯並びのように不揃いだったし、敷石の上に積もった砂が目についた。
 ビルの中は、清潔そうだったし、なにより冷房が効いているのがありがたかった。タミラは、陽介たち三人を社長と二名のスタッフに引き合わすとすぐに、どこかへいなくなってしまった。タミラがいなくなったのを見計らったのか、永館がMDレコーダーのスイッチを入れた。
「いま、オーカッド社の社屋に入ったところです。言葉は悪いですが、何の変哲もないビルですね。高さは五階建てとのことです……」
 永館の声だけが室内に残っていくようだった。
 日本のどこにでもあるオフィスと何ら変わらない会議室のような部屋に通されると、永館は即座にマイクとミキサーの準備を始め、美由と陽介はその様子を黙って見ていた。
 ドアを勢いよく開いて現れたオーカッド社の社長は、四十歳そこそこの快活そうな長身の青年だった。ノートパソコンとプロジェクターを使い、慣れた調子でプレゼンテーションを行った。彼は誇らしげに、米国でADSLモデムの半分以上のシェアを占めているという点に何度か言及した。それは、この小国の企業の業績としては、目覚ましい成功だったのかもしれない。しかし陽介は、プレゼンの効果を確かめようと日本人たちの表情を覗き込むこの男と目が合っても、なんとも反応のしようがなかった。
 陽介はつい最近、国内のADSL普及の遅れは当時の郵政省の失策が原因だとして、郵政省とNTTを痛烈に批判する記事を掲載したばかりだった。内容はほとんど、通信業界誌の受け売りだった。だから、通信について考えること自体、今は億劫だった。
「ADSLの普及は、日本ではとても遅れています。それというのも……」
 永館が、マイクの位置を気にしながら話し始めた。ITや経済を担当している記者なら誰でも思いつくような内容だった。
「日本の市場へは、いつどのような形で進出なさろうとお考えですか?」
 その後も永館は、精力的に質問を投げかけた。陽介は、永館が話していることの半分も理解していないような気がした。放送をなりわいにしている人間には、無音状態を避ける生理が備わっているんだな、とぼんやり考えながら、時折美由の様子をうかがっていた。美由は、ごく平静に二人の話を聞き、メモを取っていた。ときおり右手にペンを挟んだまま頬杖をついた。その姿の中に、陽介は孤独の影、あるいは少なくとも美由が退屈している徴候のようなものを探している自分に気づいて苦笑した。美由は陽介の期待から逸れるように、オーカッド社の人々の話に深く肯いてみたり、永館のジョークに口を押さえて笑ったりしていた。
 陽介は唐突に口を挟んだ。
「あなたは、NTTについてどう思われますか?」
 一瞬、その部屋にいた誰もが言葉を失った。すぐに、社長は不敵なまでに笑顔を崩さず、沈黙を打ち消しにかかった。
「C&WであろうとNTTであろうとも、注文をいただければ、お客様です」
 陽介を除く全員が、低く笑い声を立てた。すぐに美由が微笑したまま、流暢な英語で付け加えた。
「注文が来ない限りは、一時的には敵、ということですね?」
 相手は、美由が「敵」と口にした瞬間、聞き違いをしたか、というように首を傾げた。しかし眉間に表れた怪訝な色は、顔全体に広がりはしなかった。
「他の通信会社と同様に、未来のお客様だとしか言えません」
 社長はそう返して、手元の資料をまとめ始めながら、ドアのほうに目をくれた。彼の視線の先には、いつ戻ったのか、タミラがサングラスをかけたまま立っていた。   (以下続)