いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

テルアビブ、1998年 (1)

 小埜陽介は辛い夢から目覚めた。薄まった朝陽が、カーテンを閉め忘れた南側の窓から、掛け布団の上に細く差し込んでいるのが見えた。時計の針は五時半を指していた。夢の中身はこうだ――妻、美薗の用意した粉末状の薬物を、陽介と、みんなから「おじいさん」と呼ばれていた老人、それから飼い猫とで三等分して、それぞれ嚥下したらしかった。そこは、陽介がこれまでにも何回か夢の中で起居してきた家の中だった。まるで旅館のように、広い座敷がふすまで仕切られていた。仕切られた部屋ごとに親子が暮らしていた。みな親戚だった。陽介も美薗も、一人を除いて顔なじみがいなかったのに、その家に暮らしているのはひとつの「大きな血縁」らしかった。
 陽介の、左の大腿部から足首にかけての皮膚が炎症を起こし始めていた。ところどころがまばらに腫れて膨れ始めたのだ。木の板を脚の外側に括り付けて歩いているような感覚だった。薬物の作用が、体の表面まで出てきたのだ、と陽介は思った。膝をうまく曲げられず、美薗の肩を借りながら、左足を引き摺って歩かなければいけなくなった。死をこれほど間近に、確実なものとして感じたことがなかったから、恐怖のせいで、小さく永続的に体が震えるのを、抑えることができなかった。
 廊下より三十センチほど床の高い座敷の上で、団らんの時を思い思いに楽しげに過ごす家族たちを横目に見ながら、足を引き摺って歩き続けた。気がかりは、猫と「おじいさん」だった。家の玄関先で出会った老人は、陽介の顔を見るなり、崩れるようにその腕にもたれかかった。老人は裸だった。陽介は、腕に抱きかかえた老人の肉体が紙のように軽いのを、痛ましく思った。老人の肌の柔らかで乾いた感触を、いとおしいと思った。陽介の腕の中で、老人はこと切れた。もともと骨と皮だけだった小さな老人の肉体は、文字通りの抜け殻になったのだ。
「猫は生きているんだろうか」
 目下の陽介の気がかりはそのことだった。もし「おじいさん」に続いて猫も死んだとなると、その先に記されているのは、自分の死以外ない。
 遠くから猫の鳴き声がした。座敷につめかけている家族たちが連れている赤ん坊の声と間違ってはいないか、陽介はしばらく目を伏せて、このもの憂げに間延びした獣の鳴き声に耳を傾けた。
 どうやら本当に、あの猫は生きているらしい。いつのまに集まったのか、陽介を取り囲んでいる母、それから美薗の父母が口々に「よかった、よかった」と言っている。しかしそれどころではない、と陽介は思った。陽介の中では、ある考えがくすぶっていた。
「おじいさんを殺してしまった」
 しかし、おじいさんを殺したのは自分なのか。いや、薬を用意したのは美薗だ。美薗は、夫である自分をも殺そうとした。しかしいま、殺害の罪咎を美薗に押しつけて責任を逃れようとしている自分に、罪がないといえるのか……。
 そこで、目覚めた。夢の中の気持ちは、そのまま途切れずに続いていた。ガバッとふとんをはねのけて上半身を起こしたので、となりで横になったままテレビを観ていたらしい美薗が、面食らっていた。
「大丈夫?」
「あぁ、いや、なんかコワい夢を見てさ。薬で知らないじいさんを殺しちゃうっていう夢」
「……え?」
「いや、だから、なんかヘンな薬があってさ。ちなみにそれ、美薗が俺に渡したんだけど。で、それを飲むわけよ。俺も、そのじいさんも、それから、俺らが飼ってる猫が。三人、というか二人と一匹がそろって同じ薬飲むなんて、ありえねぇよな」
 冗談めかしてそう説明しながら、陽介はさすがに、美薗の目を見られなかった。不安の原因となるような暗いなにかを探し出そうとして美薗の瞳の奥を恐る恐る覗き見ている自分の目を、美薗に見られたくなかったのだ。美薗の視線から、遠く逃れたい気持ちだった。砂浜を歩きながら、風向きがふいに変わることがあるように、陽介の中で、なにかが予期しないタイミングで変わったのだと感じた。
 美薗はそんな落ち着かない様子の陽介を、自分の視野からそっと外して、テレビの続きを見た。上沼恵美子の料理番組の終わり近くで、三枚肉の角煮込みが長い菜箸で砥部焼きの大きな皿に盛り付けられていく様がブラウン管に映し出されていた。

 編集長の上田からイスラエルへの出張を命じられたのは、その日の夕方だった。
 陽介のすぐ上の上司、副編集長の那須イスラエルの経済担当公使ヨシュア・ベン・ダビッドから、現地での企業視察ツアーに記者として招待されていることは、数週間前から知っていた。那須はそのつ烽閧ナ準備していたようだった。しかしその日、テルアビブ市内で爆弾によるテロ事件が起きた。街頭に置いてあったゴミ箱の中に仕込まれた爆弾が爆発したということだった。
 以前陽介は、あるイスラエルのゲーム会社の社長から、インティファーダの話を聞いたことがあった。当時のパレスチナでは、「インティファーダ」と呼ばれる投石による対イスラエル抵抗運動が盛んに行われていた。この社長は、口数が多くて陽気な「ユダヤ体質」からは少々かけ離れた、温和で寡黙な中年の男だった。というか、ユダヤ人の静の部分を代表しているような人物だった。あまり笑わず、パレスチナ人たちの行う投石について陽介がぶしつけな質問を投げかけても、「ほんの数十メートルだけ離れたところにいる隣人から石を投げつけられたら、どう思いますか?」とだけ、疑問形で答えを返すような男だった。この男の灰色の光を湛えた瞳を見ながら、青く抜ける空を横切っていく、憎悪に燃えた石の軌跡を、陽介は思い描いていた。
 和平推進派として有名だったイスラエルのラビン首相が暗殺されたのは、ほんの三年前、一九九五年のことだ。ラビンが暗殺された日、陽介はパリにいた。もう寒気を感じる秋の日に、語学学校の四十歳ほどの女性教師が沈痛な面持ちで、日本、スイス、スウェーデンといった裕福な国から集まっていた留学生たちにこのことを伝えていた光景を、陽介ははっきりと覚えていた。それ以降、イスラエルの治安が悪化しているだろうということは、容易に想像できたはずだ。しかし陽介は那須から今回のテロの話を聞きながら、自分がそのことをあまり深刻に考えてこなかったのに気づいた。
 那須はすぐに、彼を招待していたヨシュア・ベン・ダビッドに連絡を入れた。市街で爆弾が爆発するような場所には危なくて行けない、今回の件はなかったことにしてもらいたい、と率直に用件を述べたという。すると相手の経済担当公使は、容易には引き下がらなかった。
地震が恐い、という理由で、自分が招待した客が直前になって日本に来ないことになったら、お前ならどんな気がする? 俺は相手にそんな残念な思いをさせるくらいなら、地震など気にせず招待を受ける」
 ヨシュアの言い分はこうだった。むちゃくちゃな話だ。那須はあきれて、「とにかく、残念だが俺は行くことはできない」と答えて一方的に電話を切ったらしい。すると今度は、那須の上司にあたる上田のところに、ヨシュアから電話が入った。「お前の部下が招待を断ってきたが、お前としてはどういう指導をしているつもりなのか。お前の下にいる誰かがイスラエルに来るのか、来ないのか、お前の口からはっきり聞かせてもらいたい」とまぁ、だいたいそんな調子のことをヨシュアが英語でまくしたててきたらしい。上田は英語が苦手だった。電話口で、ああいえばこういう式のイスラエル流の話術と対峠するのはいかにも不可能な話で、上田が口にしたのは結局、「yes」というひとことだけだった。
 そこで、海外通でならしていた陽介のところに、すぐに話がきた、というわけだった。陽介は、地中海岸の白い砂を照らす太陽光線を思って、足元が軽くなるような心地がした。