いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■恋愛で失敗し続けている人へ

恋愛にはずいぶん失敗してきた、という気がする。数多くの、とは言えないだろうけれど。むしろわたしは、自分の「恋愛の失敗」に、かなり最近まで無頓着だったということのほうを強調したほうがいいのかもしれない。いや、いまでも十分に無頓着なのだろう。特に男は、恋愛そのものから逃げる傾向があるように思う。男が「エロ」を好むのは、その裏面にあるコアな現実としての「恋愛」から逃げるためと考えて、ほぼ間違いはない。

なにかしら「事件」がないとそのことに気づかない。「事件」というのは、その女と別れるという、accidentといってもいいような大きな(?)事件の場合もあれば、本や映画に出合う、あるいは知人から気になる一言を言われたというようなincidentの場合とがある。今日の場合はincident。

「恋愛の失敗」……、それはある意味、恋愛の問題を超えている。すくなくともわたしにとって、根本的な問題であるような気さえしてくる。たとえば、自分勝手な思い込みの強すぎる片思いのような小説が、読者をまったく得られていないというごまかしようのない現実。読者、世間……ということはつまり文学そのものにフラれているのかもしれない状態。これはもう、悲恋というよりはコメディーの世界である。涙ぐましさを通り越して笑うしかない。笑うしかないけれど、自分にとってはそれがすべてと言いたいくらい大きな懸念なのだ。だからなおさら、笑うしかない。

吉田修一の作品を始めて読んだとき、「相手の求めているものを推し量るのが、なんてうまい作家なんだろう」と、ほとんど嫉妬といっていい感情を味わった。もちろん、わたしが文学に求めているいくつかの事柄を、彼の作品はしっかりと備えていた。書物の作者に嫉妬を抱くことは珍しくないから、わたしは嫉妬深い人間であると同時に、だましやすい読者ということになるのかもしれないが。

太宰治は、読者と一対一の、intimateな関係を作るのがうまい作家だった。しかし「相手の求めているものを推し量るのがうまい」とは思えない。相手を油断させ、隙を見て自分の要求を通そうとする、などというと意地悪に過ぎるだろうか。『晩年』など、若いころの作品に顕著だが、太宰は女とふたりで飲むとき、冗談で笑わせながら、その実、一方的に話し続けるような口説き方をしているのでは、と思わせる。女を笑わせて笑わせて、で、男を部屋に上げるかどうかは女が決める、というパターン。恋愛の決定権を相手にゆだねるというタイプの男だ。

吉田修一は違う。相手が無意識的に求めているものを、相手の求めているときに差し出すことができる。そのサービスは無意識のリクエストに答えてのものだから、相手はそれを拒否することができない。つまり彼のような男は、そうしたサービスをすることで恋愛のイニシアチブをとるという責任を負うことになる。それは男気みたいなものの、ひとつの表現かもしれない。女性から見ると、かなり手ごわいタイプではないか。

……などとまぁ、文学の話にすりかえてしまうところが、わたしのダメなところだ。恋愛の煩わしさを正面から扱うことから逃げている。要は、相手が欲しがっているまさにそのことをさりげなく、恩を着せることなく差し出すことがなぜできないのか、ということだ。「なんでそこまで気をまわしてやらなきゃいけないんだ!」などと言ってはいけない。自分も愛されたいという、ほとんど不当なまでの強い要求を相手に突きつけているわけだから。

明らかに間違った愛し方、というのは、この歳(35歳)になり、なんとなくわかってきた。たとえば、相手に母性を求める愛し方、これは間違い。なぜなら、相手はまさに「母でない自分」を愛してもらうことを求めているのだから。

母を思う、とはよく言われる。しかし、「思わない」からこその母なのでは、と思う。わたしは母を早くに亡くしたから特にそう思うのかもしれないが、母の心情、母の悩みに思いいたすなどということは、結局、なかった。もうしわけない気持ちもあるが、よい母親というのは、子供にとってそんなものではないのか。母は子供にとって、心理的な意味での、世界の全体なのだ。やさしく覆ってくれるもの。外部から守ってくれるもの。それについて、心配しなくてもいいもの。

女は、母になどなりたくはないだろう。誰しも、心の機微を気遣ってもらいたいし、見守り、愛してもらいたい。母になることは個体にとって、望ましい選択ではないのだ。だから「他人」である女に、そんなことを強要するのは間違いだ。お門違いといってもいい。わたしはひとつの大きな恋愛の失敗から、そのことを学んだ、はずである。

目の前にいる相手を、まず見ることからはじめたい、と思う。相手が何を求めているのかを探り、想像すること。相手は自分を包み守ってくれる女神ではなく、一個の絶対的な未知としての「他者」なのだから。