いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■『ポスト・ムラカミ〜』、それから中原昌也のことなど

曇り。妻がつわりでゲロを吐いていた。

日中は二度昼寝する。平日、ダラダラと徹夜しすぎで、老境にさしかかった体が疲労しているらしい。

夜中になって猛然と読書し始める。この前買った仲俣暁生氏の『文学:ポスト・ムラカミの日本文学 カルチャー・スタディーズ』ISBN:4255001618了。遅読のわたしとしてはかなりのものだ。とにかく読みやすく明快な評論である。1年以上前に出た本だが、綿矢りさなども登場するほどタイムリーに作品をとりあげ、クリアーな批評を展開している。いまだに「不敬文学」とか十年一日のごとき話題に拘泥している文芸批評家諸氏は見習っていただきたい。

好きだった小説を読んだ思い出が走馬灯のように次々とめぐってくるように書かれていて、楽しい本だ。すばらしい仕事である。このように楽しめるのは、たぶん自分が男だからだろう、とは思ったが。

この作品の際立った特徴は、この、「男」ということに関係がある。最後の部分で仲俣氏自身が告白しているように、赤坂真理黒田晶を除き、女性作家について言及していないということだ。つまりここで展開されているのは、"W村上以降の男流文学史"なのだ、ということである。

中上&大江時代には(前世代の「戦争」を受ける形での)「天皇」、W村上&高橋源一郎が「言葉の更新」、90年代以降のJ文学(ってくくりでいいのかな?)では「暴力」……それらがみな、「男の子の悩みの種」に過ぎないってことかもしれない。そう考えたほうがスッキリするのは確かだ(そういえば、阿部和重のところで蓮實重彦やら後藤明生の話が出てこなかったのは少々意外だった。これもバブル的ニューアカ的キーワードとして、個人的にはショボい感涙を誘うところではある。もちろんそういう風俗とは別に、蓮實と後藤の仕事はナイスだとわたしは思うが)。

でもぼくには、男だけ、あるいは女だけの個の問題のさらに先にある、ともに生きたり、ときには共に戦ったりする仲間のことが気になるのです(p146)

さらに言えば、とかく問題意識を共有したがるのも男の性、ではある。共同幻想とかって、いかにも男、および「男になりたがり女」が使いそうな言葉だったわけだ。つまり現在の文学では、この「問題意識の共有」ということ自体が俎上に上がっているということかもしれない。

(あなたの言う「愛」という言葉は、わたしの口から出る「愛」とは決定的に違うのだ。いや本当を言うと、違うのかどうかも、少なくともわたしにはわからない・・・)

そういう意味で、時代の「中性化作用」のせいでジェンダーが崩壊しつつあるにせよ、いやそれだからこそ、個と個の隔たりがが際立ち、あらゆる次元での共同性が崩壊していく過程なのかもしれない。あるいは、旧来の共同性から散り散りに切り離された、まったく異なった共同性が台頭しつつあるということかもしれない。

(彼方へ投げかけるこの言葉は、「あなた」に、伝わるのかどうか・・・)

しかし考えてみると、書物を通じたコミュニケーション自体がもともと跛行的で(作家は書きつつ読み、読者は読みつつ語る)、こうした「賭け」にゆだねられていたのだ。

話は少々飛ぶが、以下のようにほとんど紋切り型の表現で埋め尽くされた文章に、どうして自分がひきつけられるのかを知りたかった。

気取ったフランス風のカフェの窓から、可愛らしい小鳥たちが自由に飛び廻るのが見える。世の中全ての若い人たちがこの小鳥たちのように、己の欲するままに生きることのできるように、これから世界が変化していきますように、と心の中で祈らずにはいられないのぶ子だった。(中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』中の『血で描かれた野獣の自画像』)

中原の「作品」には「構成」がないから、その特徴は「断片」ということだろう。そしてさらにもうひとつ、上に挙げたような「程度の低さ」、「底の浅さ」があると思う。いま現在、自分たちがその場しのぎに使っている言葉の支離滅裂さ、程度の低さを、うまくシミュレートしている、ということかもしれない。それを裏付けているのは、「俺たちのコミュニケーションなんて、親を黙らせたり、上司にゴマすったり、友だちとバカ話したり、女をだましてヤろうとしたり、援交しといて値切ったり・・・ロクなもんじゃない」という、話し言葉に対するペシミスティックだが、至極まっとうな現状認識がある。二葉亭四迷が書き言葉=悪玉に対置して顕揚したフロンティアとしての口語=善玉(高橋源一郎ですら、口語的表現を善玉として処遇しているところは古臭いのだろう)が、擁護する価値のないどうしようもないクズだという認識。さらに、そういうくだらない言葉で伝えようとしている「内容」も、「器」と同等にくだらない――こういう見切り方が新しくて、爽快なのだ。たぶん。舞城王太郎も、そういう口語のフラットさを、うまく使っているとは言えるかもしれない。

「俺は意味のあることなんかなんにも言ってない」・・・これって、たとえばジョン・ライドンがパンクロックでやっていたこととおんなじか?

いずれにせよ、彼方にいる誰かさんとともに生きること、あるいは「歴史」というものは、実に一筋縄ではいかない、やっかいな「傷」のようなものである。

・・・などなど、ひどく断片的な感想(にもなっていない)だが、今後につながる大事な鍵を得た。『ポストムラカミ・・・』を書かれた仲俣氏に、重ねて敬意を表する。