いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■21世紀の出産

晴れ。

妻がまた妊娠したとの知らせが。いろいろな意味で驚くべきことだ。めでたいといえばめでたい。先が思いやられる、とも言える。自分のような人間が、複数の子どもの食いぶちを稼ぎ出さなければならないというのは、傍目には悲惨に映るはずだ。子どもというのは、できないときにはまったくできないが、できるときにはいやというほどできてしまう。子どもが7人いる知人がいるが、あきらかに何も考えていない。9人いる保育園の最年少クラスで、下の子どもを母親が妊娠したケースはこれで3番目になる。これが多いのか少ないのか。よくわからない。

向井亜紀というタレントが代理母出産をしたというドキュメント番組を見るのを忘れた。ビデオも録らなかった。ダイジェスト版を見て「自分の遺伝子を残す・・・」と言っていたのが印象に残った。遺伝子の存在はもちろん、目には見えない。顕微鏡で見ようとすれば見られないことはないが、患者が医者に「自分の遺伝子を見せてください」と言っても、おそらくは見せてもらえないだろう。自分のものなのに、見ることはできない。そういうものは、内臓や骨、あと深層心理みたいなもの?も含めていろいろある、らしい。見たことがないのだから、ほんとうのところはわからない。遺伝子というものの存在も、学校の生物の時間や新聞やテレビで話されているので、なんとなくそういうものがあるのだろう、くらいに、われわれは考えるしかない。しかし向井さんは、その「学校の教師やメディアの言うことを信じれば、なんとなくそういうものがあるらしい」という「そういうもの」のために、米国で代理母を見つけ、産んでもらうことを決めた。多くのリスクを背負って。かなりギリギリのテレビ取材を許し、本を執筆し・・・要するに手段においても動機においてもメディアの力を最大限利用して、代理母出産に必要な金を稼ぎながらだ。そうして、双子が生まれた。かなり強引なやりかたで、ほとんどありえないような望みをとりあえずかなえてしまった。これはスゴいことだと思う。文字通り21世紀の出産だ! まいった。

Kくんと電話で長話。当然のようにフットサルの話だ。「ボールをもらえないということは、人間としてまだまだ信用されていないということだよ。技術ではなく、人間が見られているということさ」とまことしやかに言い聞かせる。われながら、人間が見られるとは、恐ろしいことを口にしたものだ。

仕事の合間にネットでコソコソと、いま書いている小説のための資料集めをする。西アフリカの現代史だ。独裁者たちが自分のよって立つ基盤をどういう手口でつくりだしているか、あと、旧宗主国のフランスが、どうやって彼らを飼っているか、みたいなことだ。みにくい。もちろんみにくいが、それはいまにはじまったことではないし、なにかしら関心を引くものがある。そのみにくさに絡め取られている個々の人々、個々の愛と憎しみは、かならずしも状況の醜さと対照をなして美しいというわけではないにしても、喜劇的な詩情というものを生み出す素地がある。

小説を思いついた。
でも、書かなかった。

小説を書くのではなく、
小説を思いついたというところが、肝心。
(中略)
小説として書かなかったことの意味が、これ、
空想の先を途切れさせたということ。


これは、鈴木志郎康さんの『小説の青空』。
http://www.catnet.ne.jp/srys/

ふつうの表現なのだが、おもしろい。空想の先か。