いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■山形浩生氏は叩く相手を間違えていたのではないか(すごく古い話ですね)

高橋源一郎氏の日記http://www.plays.jp/diary/gen1rou/index.htmlによると、中沢新一氏の

『精霊の王』はあまりにも傑作。ここでは、中沢新一はかつてのレトリックは捨てている。重要なのは内容なのだ。では、彼のモチーフはなにか。直接、書かれてはいないが、「グローバリズムや国家に真に対抗しうる思想」「国家が死滅した後の世界を支える思考」こそが、この本で捜し求められているものだ。中沢新一は、それを『フィロソフィア・ヤポニカ』では田辺元の思想に、『緑の資本論』では、宮沢賢治イスラームの思想に、見出そうとしていた。その探究は、いま、打ち捨てられた、古い、日本の神にたどり着いたのである


とのこと。うーむとうなってしまった。

中沢新一氏は、たしか『バルトークにかえれ』とかいうエッセイで、嘘、というといいすぎかもしれないが、そこで取り上げているエルネ・レンドヴァイの『バルトークの作曲技法』の内容を歪めて要約していたのを読んで、以降はまったく読むのをやめてしまっていた。中沢氏はレンドヴァイを引いて、バルトークにおいては、黄金比やテトラコルド(4度音程でつくられる音階の"枠"のようなもの。各地の民謡にみられるペンタトニック="四七抜き音階"の軸をなす)に基づいた非西欧的な音楽の原理が、近代的・西欧的な音楽にとってかわるものとして採用されたと言っているが、レンドヴァイの主張はそういうことではない。レンドヴァイが出した結論は、実際に『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』を分析しながら、バルトークがやろうとしたのは、黄金比や4度音程に代表される非西欧的な音楽原理と、対称性や平均律、5度音程に基づく近代の西欧の音楽とを融合させることだった、ということだ。

わたしがウンザリしたのは、中沢版"近代の超克"のダシに、こうした地味な(音楽プロパーの、という意味)研究が持ち出されることだ。どうして「レンドヴァイ氏はバルトークの意図をこう解釈しているが、わたしはより踏み込んでこう解釈したい」という程度のことが言えないのだろう(本当に誤読していたのかもしれないけど。それならお話にならないか)。この例で言えば、ソーカルではないが、ニューアカ的ないわゆる「メタファー」は確かに吐き気を催す。まるっきり、知的搾取の構図じゃないか。わたしとしては、山形浩生氏には浅田彰クラインの壷という被害者のいないケースではなく、故意の曲解の被害者がいるこのケースをこそ取り上げて欲しかったのだった。

しかし、まぁ、いいや。俺が被害にあったわけじゃないし(おいおい)。

わたしは昨年の秋、熊野にある那智の滝、ゴトビキ岩、浮島の森などに材をとって、神道以前(というか以下というか)の、山伏・比丘尼信仰と、現代の出会い系恋愛とをからめた小説を書き上げたばかりなのだ(要約すると、いかにもイタい感じですね)。きっと、中沢新一という人は、自分とすごく近い問題について考えている人なんだ、という気持ちは前からあった。宗教学とかは、なんにも知らないんだけど。ただ自分としては"古い日本の神々"に期待するものなんか、これっぽっちもない。古いものが、息苦しい欧米由来の文明から解放してくれるとか、そういうことではないのだ。「かつて、そういう貧しくも懐かしいものがあったが、それはもうない」ということだけだ。

神がどんなふうに殺害されたかを見ることが、守り神のいない未知=未来に直面し、戦うための知恵を与えてくれるということに過ぎない、と思う。

『精霊の王』……うーむ。まぁ、読んでみるか。

ほんとは東浩紀氏の波状言論について書くつもりだったのに……とんだ寄り道をしてしまった。