いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■オーネット・コールマンを思う

アサヒ・コムの『私の好奇心』というコーナーの、呉智英氏(「くれ・ともふさ」って読むんですね。知らんかった。これってハズカシイ?)の回『失われた共通言語を求めて 』がよかった(ライターがカーツ佐藤というのも泣けるが)。http://book.asahi.com/topics/index.php?c_id=109

 読書といえば、時代の問題あるけどさ、オレたちの学生時代はみんな、マルクス主義系のヤツ読んだよね。今そういうのがなくなってたっていうことは、やっぱりよくないことだと思ってる。それはどういうことかというと、別にマルクス主義が崩壊したとか崩壊しないとかいう問題じゃなくて、マルクス主義の本読んでた時も、新興宗教じゃないからそれを全て信じて読んでいたワケじゃなくて、みんなそれをひとつの標準にしてたんだよね。それを読んで「ここがいけない、ここがいい」と考えるワケ。そういう基準になるものがないっていうのはまずいんだよ。

 “教養の崩壊”ってよくいわれてるのは、ようするに共通の言語がなくなってるんだ。共通の言語がなくなる、つまり基準がなくなる。すると賛成したり反対したり、自分の論理を組み立てたりすることがなくなる。それがまずいんだよね。

あっけにとられるくらいシンプルな話だが、案外、こんなことかもしれない。
『バイブル』がない世の中とは、どういう世界なのか。
「そんなもんないほうがいいに決まってる」という意見もあるだろう。だいたい、聖書にしろ資本論にしろ、"教典"ということに変わりない。
呉智英がぬからずに指摘するのは、"基準"、スタンダードということだ。

全て信じて読んでいたワケじゃなくて、みんなそれをひとつの標準にしてたんだよね。それを読んで「ここがいけない、ここがいい」と考えるワケ。そういう基準になるものがないっていうのはまずいんだよ

信じる対象としての預言者の言葉ではなく、"リファレンス"ということ。それに、人間が本当に好きになって机をたたきながら議論したくなる対象というのは、いつも"リファレンス"なのだと思う。

いま、われわれに残されているのは、限られたコミュニティー内だけで通用する"限定共通言語"のみだ。コミュニティーの枠を超えても通用する共通言語ではない。ネグリの『帝国』、だろうか。どうも、ぜんぜんそうじゃない感じだ。Windows? ヘタすると『千と千尋の神隠し』のほうが、"共通言語"してしまっているかもしれない。エヴァンゲリオン? ガンダム? シャアザク?(オタク的共通言語だけじゃん)

スタンダードのないジャズがありえないように、『バイブル』のない言葉もまた、ありえないはずなのだが・・・。まぁ、ないもんはないんだから、それでやるしかない、ってことだ。