いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

『KKKベストセラー』 中原 昌也

ISBN:4022501782
『名もなき孤児たちの墓』はある意味、中原作品に慣れ親しんでいる読者にとっては"ふつうの小説っぽさ"も備えていて、野間文芸賞受賞も順当wと思われるかもしれない。しかし『KKKベストセラーズ』に至っては、全編愚痴ばかり、そもそも元になっている連載も"島田雅彦問題"wの余波で中断してしまったもので、まさに"中原節"炸裂。しかしこの作品の"戦略?"めいたものは、最高潮に巧妙になってると思う。しかし自分は以下の一文を見逃さなかった!


近代における誠実な文章は「完全なる自己否定」でしかなし得ない、と僕は信じている。(『KKKベストセラーズ』p90)

この作品の「主題」はここに尽きると思う。要するに中原昌也にとっての如是我問であり、彼の芸術論の核心部分なのではないかと思う。

本の雑誌のウェブに、『作家の読書道』というインタビュー記事がある。中原もこれに意外なほど律儀に答えているのだが、彼の作品の動機は以下のように率直に述べられた単純な事柄の中にあるのではないだろうか。
http://www.webdokusho.com/rensai/sakka/michi60.html


中原 : 全然書いていない。やっぱ、なんか、賞がどうのこうの、に参加してみて、クリエイティビティは求められていないんだな、ということが余計分かっちゃった、というか。賞って権威とか権力とかのものであって、クリエイティビティとは何の関係もないってことがよく分かりました。自分にしかできないようなことっていうのを求めることと、文学は何の関係もないんだ、って。みんなと同じようなことを考えられる、感じられるものが求められて、自分だけが大切にできるようなことっていうのは必要とされていないんです。個人しか持ち得ないヴィジョンとか、そういったものなんてどうでもいいという。文学もそれでいいと思っちゃっているんですね、おそらく。みんな同じものを見ればいいってことで、全体主義に支配されつつあるんです。

――同じものばかりではつまらない。

中原 : どんな文学があってもいいと思うんですよ。みんなが、誤差が少ないように同じように感じられることばっかり目指していたら、危険を感じますよ。そういう方向に向かっていますよ。それが都合のいいことなんだけれど、連中にとっては。そういうことに気づいてほしいですね、みんな。個人を尊重できる世界にならなきゃいけないのに、そうじゃないでしょ、今すべて。僕はそういうのに異議申し立てしたいだけ。悪趣味なことをやろうとしているわけでもないし、暴力的な表現をやるとかそんなことは、どうでもいいんです。僕のテーマじゃないんです。

こうした発言から見えてくるのは、「自由な表現」に対する純粋なまでの愛着や忠誠心だ。中原にはそぐわない言葉かもしれないが、「自由」、あるいは自由の実践としての芸術という営みに対する、宗教的なまでの真剣さ、みたいなものが一貫して見られるような気もするのだが・・・・しかしやはり、中原に自由やら宗教的やらという言葉は、あまりにもそぐわない感じもする。

というか・・・まったく的外れかもしれませんねw