いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

『半島を出よ』  村上龍 著

ISBN:434400759XISBN:4344007603
いまさらというネタですが。身も蓋もない話だが、『半島を出よ』は読みごたえのあるすばらしい作品だった。……バカみたいな感想ですね。ただ、村上龍、というか現代日本文学そのものの熱心な読者とはとても言えないわたしにとって、この作品のよさ、技術、新しさみたいなものをどうとらえなんと表現していいものか考えあぐねていた。

よそのブログなどで書評を「カンニング」していると、『ブラッディー・マリーを飲む前に』というblog http://blog.kansai.com/nina/ に、自分にとっては非常にわかりやすい評価が載っていた。そのまんまイタダキという感じになってしまうが引用させていただく。


話は変わるが、現在最もメジャーだと思われる日本の小説家と言えば、村上春樹吉本ばなな村上龍と言っても良いだろう。この3人の作品に共通する事は一つ
『行って、帰ってくる話』
これだけ。

村上春樹は『行って、帰ってきた』後、周囲に上手く溶け込めない話。
吉本ばななは『行って、帰ってきた』後、何だかんだで上手くやっていける話。
村上龍は『行って、帰ってきた』後、なんてどうでもいい話。

これを読んで、なるほどほんとにそうだ!と膝を打った。
そしてさらに引用させていただくと・・・


しかし、‘頻繁に登場するだけの主要登場人物’ではない。ココが『半島を出よ』の‘行って、帰ってくる話’ではない所。
神の視点で描かれたストーリーは、その数十人全てにスポットを当てて、その過去・思想・アイデンティティに踏み込んでいる。簡単に言えば、主人公がいないって事ですよ。

なるほど・・・と、もぉ、そればっかですみません、という感じだ。
全体を通した主人公がいない、つまり「群像劇」の形式自体は目新しいものではないが、通常の群像劇が、大なり小なりの時間の流れ=「歴史」が実質上の主人公となるのに対し、『半島を出よ』では、時間にすら、与えられる役割は詰め込まれた情報の「目盛り」程度に絞られている。

恐らく、『半島を出よ』の主人公は歴史でも政治でも、ましてや日本人の運命などではなく膨大な「情報」なのだ。作品の実体は、情報を定数や変数とした精緻なシミュレーションなのだ。村上龍の「シミュレーション装置」の精緻さには舌を巻く他ないのだが、それよりもなによりも、シミュレーションとしての散文の圧倒的な透明さこそが、他の作品とは代えがたい魅力となっている。

『半島を出よ』の読者が戦慄するのは、日本の敗北が論理的に正しいとする物語にではなく、朝鮮半島と日本との関係も、たまたま選ばれた場にすぎないとするような、情報とシミュレーションの冷徹さに対してなのだろう。


情報の堕落があるのではなく、情報とはそれ自体が堕落なのだ。(ジル・ドゥルーズ『映画』 春永浩敏『孤独を求めて、連帯を恐れず』より引用http://www.t3.rim.or.jp/~harunaga/image-temps.html

言葉が堕落=情報それ自体として精緻であろうとするとき、安価な叙情性や人間性は徹底的に排除される。それでもその非人間的な地平でなおも律動する「力」があるとしたら、その力こそが堕落を覆し燃え上がらせるだろう――そうした「希望」こそがこの壮大な試みの核心にあるように思える。