いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■美しい男たち

最近、立ち姿の美しい二人の男たちに出会った。ひとりは書店で、ひとりはウェブサイトで。出会いとしてはありふれたものかもしれない。

平台に載ったある本の表紙の写真に目がひきつけられた。写真に写っていたのは、コートにネクタイ姿で夜の街に佇んでいる中年の男の姿だった。その立ち姿の美しさに、目を奪われた。帯の左端には、顔写真のアップがある。よく見直してみると、白髪交じりの頭に、眼鏡、髭。ごく普通の中年男性だ。そのなんの変哲もない男の立ち姿から、厳かさと言ったらよいか、色気と言ったらよいか、なんとも言いようのない魅惑的な香りを自分がかいでいることに気づいて、とまどった。ほとんど、狐につままれたような気分だった。日本にも、こんなに美しい姿、美しい顔の人間がまだいるのだと、少し頼もしい気持ちもした。

男の名前は水谷修。高校教師だという。「夜の街」と「教師」という組み合わせの異様さが、彼の存在の特異さを示している。すでに本を何冊も書き、テレビでも何度も取り上げられている有名人らしい。わたしはまったく知らなかった。本のタイトルは『夜回り先生』。ASIN:4921132542

夜の街を歩き、問題を抱えた子どもたち数千人との「交流」の記録だ。内容に関してはぜひ書店で購入していただければ、と思うが、エッセンスとなる内容は、毎日新聞の『水谷修先生の夜回り日記』http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/yomawari/index.htmlに掲載されている。

この本は、子どもたちの「非行」の原因がほとんどすべて、程度の差こそあれ、さまざまな意味で相対的に力の強い大人によって子どもたちが受けた、弱いものいじめや放置という仕打ちの結果であることを明かす。驚くほど、単純なことだ。複雑な概念を用いて社会現象を分析したりする、はるか手前の問題である。そしてこの単純さにこそ、戦慄させられる。それぞれの子どもに思いをかけてやる、それだけのことがなされないために、子どもが危険の中に放り込まれてしまうというのだ。

 私は、子供たちは花の種だと考えています。どんな花の種も、植えた人間がきちんと育てれば、必ず時期が来れば美しい花を咲かせます。これは、子供たちも同じです。親が、教員が、地域の大人たちが、マスコミまで含めた社会全部が、子供たちを慈しみ愛し丁寧に育てれば、必ず時期が来れば花を咲かせます。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/yomawari/archive/news/2004/20040206org00m070997000c.html

水谷氏の基本的な考えは、こんな言葉に表されている。子どもが花とは、ありふれた比喩かもしれないが、育ち、育てる悩みや苦しみを少しでも知っている者なら、この比喩の重みを察することができるのではないだろうか。花が育つも育たないも、すべて育てる者の責任だということ。花には罪がないということだ。

水谷氏自身のサイトに掲載された『「7:2:1」から「3:4:3」へ――大人は何ができるのか』http://www.koubunken.co.jp/mizutani/05.htmlというコラムも興味深い。教育者の間で知られるこの数字は、自然に一人前に成長する子ども、普通と非行の間をフラフラしている"谷間の子ども"、非行少年・少女の比率を表しているという。以前7:2:1だった比率が、いまでは3:4:3に変化し、"4"に当たる"谷間の子ども"に対する指導の強化が急務である、という指摘がされている。日ごろ勝手な想像を書き連ねているわたしの場合、無意識的にこの比率を1:6:3、もしくは0.5:6.5:3くらいに想定し、それは子どもも大人も変わらないと思っている。晴れやかな"昼の世界"は、ずいぶん遠くにかすんでいるように見える。それはつまり"谷間"の状態ということだ。どっちつかずの"谷間"こそ、現在というものの偽りのない姿ではないだろうか。

前のところで「日本にも、こんなに美しい姿、美しい顔の人間がまだいるのだ……」と書いたが、水谷氏の生い立ちを読むと、それは少し事情が違うことがわかる。日本という社会が「夜回り先生」を生み出したのではなく、時には日本の社会から落ちこぼれ、時には周囲との激しい闘いの中から生まれたということだ。「子どもを食い物にする汚い大人が多すぎる」という憤りが、彼の夜回りのエネルギーになっているようでもある。

それにしても、全編にあふれかえるこの悲しみはどうしたことだろう。ちょっとした気遣いが救うことのできるはずの子どもたちが、地球上のいたるところに、現に存在していることを、われわれはそれこそわずかずつでも思いいたし、小さなことから行動に移してみる義務があるのだろう。



この本は、体裁についても目をひくところがある。活字が非常に大きく、大胆に余白がとられ、各見開きに美しい写真が配されている。なかなかよくデザインされ、ほとんど"ビジュアルブック"のようなつくりである。出版している『サンクチュアリ出版』によると、"活字離れ"がいわれる若い世代に読みやすく、本の楽しみを伝えやすい体裁を選んでいるとのこと。20代のスタッフによる本当に若い出版社だが、ウェブの影響も感じさせるその方向性は間違っていないと思う。

旧来的な出版人から見ると、かなり神経を逆撫でされるような体裁、ともいえる。少々いじわるな言い方をすれば、"イージーリーディング"と呼べそうなこの動きこそ、本というものの新しい流れだとは思う。視覚によって伝わるものもあるわけだから、イージーであってもプアであるとは限らない。ただし、細やかな論理性みたいなものは、犠牲にされてしまうのかもしれない。

『世界の中心で、愛を叫ぶ』は未読だけれど、行間を空けた本文組版と分厚い紙で束のある(分厚い)本を一気に読ませる戦略は、同じ流れの商業的な側面を見せるものだと言えなくもない。こらえ性のない今の世の中で、なおも本で何かを伝えようとするなら、こうした流れを無視することはできないはずだ。出版人なら、本にしか伝えることのできない、変わることのないなにかの存在を、確信しているだろうから……。

"ビジュアルによる伝達"はほぼ確実に、文字に代わる伝達メディアとなるだろう。ただしその移行は、気が遠くなるほどゆっくりと進んでいくように思う(というか伝達メディアはいつも平行して存在している)。法律が文字でなく、映像などのビジュアルで書かれる(録画される?)ころになって初めて、「あぁ、"ことば"の主流は、文字からビジュアルに変わったんだな」と気づくのではないだろうか。

もうひとりの「立ち姿の美しい男」は、パレスチナ生まれの風刺漫画家、ナジ・アル=アリだ。http://www.handala.org/najialali.html
ナジ・アル=アリについては、また後日……。