いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■1979年/1995年

イラクで邦人が誘拐され、大変な騒ぎになっている。24時間以内に釈放されるとの報道もある。無事救出されることを祈るしかない。

それとは関係なく、最近、少し離れたふたつの時期について少しだけ考えた。ひとつは1979年〜1981年。もうひとつは1995年だ。

前者はもともと、イギリスのオルタナティブ・ロックバンド、ジョイ・ディヴィジョンのデビューあたりのことを思い浮かべていた。いろいろな考えがあるだろうが、オルタナティブロックがパンクの後継者として生まれる過程に、英国での労働党の敗北とサッチャー政権の成立が影を落としていた(これって常識なのかもしれません)。その辺の事情や雰囲気は、ハードコア・パンクバンド、クラスが'81年にリリースした代表作『penis envy』などに、おそらく総括されている、はず……(よく覚えていない)。『penis envy』はいまでも入手可能なようだ。さっそく手配しないと。

それにしても、ハードコア・パンクの元祖みたいに言われるクラスの、レコードにおけるデザインワークは、とてもカッコイイ。パンクとはとても思えない。それこそ、ジョイ・ディヴィジョンのジャケットをデザインしていた、ピーター・サビルと双璧ではないか。penis envyに添えられた"WHAT VISION IS LEFT AND IS ANYONE ASKING?"というマニフェストに、多くのことが語られている。これが、ノイズ系のSPK『despair』などにも影響する、ある「気分」の表明なのだと思う。

ひとことで言えば、出口なし、という状態だ。ド不況の上に超保守政権が誕生したら、労働者は切り捨てられるという恐怖が芽生えるのは、自然のことだ。そんなこと許すものか、という怒りと、もうどうにもならないという絶望の二つが、オルタナティブロックの、もともとの通奏低音だったように思う。

ただ、それがヨーロッパへ、そして日本に飛び火したときには、まったく異なった化学反応が生まれたのだ。経済的な興隆を迎えつつある社会に、怒りと絶望が注入されたとき、なにが生まれるのか――そういう実験だったのかもしれない。だから、'80年代から'90年代にかけて、こうした英国のオルタナティブなカルチャーの直接・間接的な影響で生まれてきたのは、「物質的な豊かさに内包された怒りと絶望」ということになるという、予想が立てられる。実際に、どうだったのだろうか……。


後者、つまり'95年は、世間的に、本当にいろいろなことがあった年だ。厄年と言われても誰も驚かないだろう。まず、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件、11月(?)にイスラエルの和平推進派だったイツハク・ラビン首相が殺害され、その後の対パレスチナ強硬路線を決定付けた。エヴァンゲリオンも同じ年に放映されたようだ。こちらはあからさまに「暴力の年」といってもいいかもしれない。2001年9月11日の予兆は、すでのこのころからあった……というのは、単に気分的な類推にすぎませんのであしからず。


両者の間の15年間に、なにがあったのか。どんな変化があったのか。
一口には言えないが、怒りや絶望という感情のパワーが、より肉感的な暴力の位相に移ってきた、とは言えるのかもしれない。

さらに、'95年から現在まで、信じがたいことだが、すでに10年近くの月日が流れている。この10年に起こったこととは、「暴力の圧縮」ではないか、というのが、またまたわたしの勝手な思い付きである。後日、ゆっくり整理してみたい。