いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■ralantissement〜吉田修一『パレード』について

パレード

たまには落ち着いてなにか書かなければ、と思う。では、なぜそう思うのか、と自分に問いかけてみると、答えはそれほど単純ではない。

とくこのブログのように、「日記」、「覚書」という形式を使って書き物をしている人間にとっては、書くことがすなわち、立ち止まる、振り返る、というような、速度を緩める働きと結びついているようだ。

日常は足早に過ぎ去っていく、といわれる。しかしそれは本当だろうか。それほど日常生活はめまぐるしいものか、というと、実はそうでもない。日常の多くは習慣によって成り立っている。なぜ今日出勤するのかといえば、家族のため、金のため、仕事のため、など、いろいろ理由は考えられても、もっとも強い動機は、「昨日も会社に行ったから」、「今日も会社に行くことになっているから」という習慣の力だ。

足早に時間が過ぎ去り、動いているのはむしろ、外の世界だ。貨幣の価値も、日々刻々と変動している。9月11日のように、ある日を境にして、世界全体が大きく変化する、ということはよくある。

周囲の人々との関係はどうか。それは微妙だ。それぞれがそれぞれの習慣に身を浸して生きているように見える。だから「関係」というものも、そうは変わらないように見える。しかし、本当か?−−それはわからない。高速道路を走る自動車のようなものかもしれない。各々の速度で走りながら、競争をするわけでもなく、互いに前後して、どの出口で降りるかも知らずにただ、ときに並走する「他人の自動車」。

習慣に身をまかせ、動こうとしない自分。それから、自分をまったく問題にせずに、めまぐるしく変化していく、窓外の風景。背後になぞを隠したような、隣人の顔……ここに、速度にかんする埋めがたい齟齬感が生まれているようだ。

その齟齬感にストップモーションをかけ、コマ送り映像をなんとか素描しようとすること。そういうものとして、書くことはわれわれの習慣に入り込む。つまり書くことは、動くものと動かないものとの間をとりもつもの、そしてその中に、動くものと動かないものを入れ子状に抱え込んだもの、ということになる。生きる速度に対して働く、スタビライザー(安定化装置)のようなものなのかもしれない。


吉田修一の『パレード』の5人登場人物たちは、だれも日記を書いたりはしない。彼らは、東京郊外の2LDKのマンションで、擬似家族的な共同生活を送りながら、つかず離れずの生活を送っている。作品は、彼らがひとりひとり一人称で語る5つの章からなっている。たとえばメキシコ料理店でバイトする大学生、杉本良介が語る最初の章は、こんな調子で始まる。

つくづく不思議な光景だと思う。ここ四階のベランダからは、眼下に旧甲州街道を見下ろせるのだが、一日に何千台という車が通っているにもかかわらず、一台として事故を起こす車がない。

ここで良介が語っているのは、めまぐるしく不測なはずの外の世界が、自分がそのなかに暮らしている習慣と同じように、見えない規則にしたがって営まれているように見える不思議さのことだろう。

『パレード』はこのように、あたかもそれぞれの登場人物たちの日記のようにして、しかし日記を書く人間のスタビライザー的安定性を欠いた状態で、進む、と同時に留まるわけだ。それぞれの人物たちの習慣は、当然ズレている。そして擬似家族の営まれている部屋はまず、そのズレが微調整される場として機能する。つまりこの部屋を出入りすることで、それぞれの人物たちが、アクセルを緩めて他の者たちの速度に合わせるような行動をとる。良介が「先輩の彼女」を部屋に招待するに際して、彼女によく思ってもらうため、部屋の他の住人たちに脚本どおりに演技してくれと頼む場面などは、典型的だ。そしてもちろん、速度の違いが際立つ別の場面は、このほのぼのとした減速状態から反転したように激烈なものとなる。こうした速度の変化の表現を可能にしているのが、「日記を書かない人物たちによる、日記のような独白」というこの作品の形式だろう。

物語の終盤の、ひとりの人物の科白は象徴的だ。

これまでと同じように、自分さえ一歩前に踏み出せば、それで済むことなのかもしれなかった


この科白を登場人物に語らせる吉田修一の技術が巧みなのは、この「前」がなにを意味しているのかが、もはやわからなくなるという点だ。ふつうわれわれは、「前に踏み出す」ことをポジティブにとらえ、(勝手に明るいものと想定した)未来、習慣にしたがって「ゆっくり訪れる未来」への一歩だと捉えている。しかし、この科白での「前」は、まったく異なる。その「前」は、擬似家族というパブリックスペースへ再び戻る、つまり速度を落とすことなのか、逆に自分の習慣から飛び出して急加速することなのか、あるいは、ポジティブな方向なのかネガティブな方向なのかということがあいまいな状態、つまり、もはや「前」ではないということだ。

日記を書かない登場人物たちの独白という形式を選んだ吉田修一は、われわれの生きる速度の不安定さを、よくわかっているのだろう。そして、「日記」ではないなにか、フィクショナルななにかを投企的に書くとは、その不安定な速度を緩めつつ加速させてしまうことによって、ありえないような「前」に向かうことなのだと、示しているように見える。