いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■行き先の書かれていない切符

ただ1分、1秒、生きているだけで、おとずれる悲しみと苦しみがある。日々ひとさじずつ、火薬が盛られているようなものかもしれない。いつかそれは爆発するかもしれない。積もれば積もるほど、爆発の規模は大きくなる。いや、最後まで、爆発せずじまいかもしれない。

それからもうひとつ。ことばに上も下もないのではないか、ということ。
ある目的に対して、重要度、優先度をつける、ということはある。
しかし目的が明確でない場合、一般に"伝達の手段"などと言われもする言葉に、どうやって価値付けすればいいのか。

価値付けすること自体、論理的には根拠がないのではないか。これはあたりまえのことかもしれない。

より具体的に。たとえば、文学の価値、と言うことが言われるとする。カフカの作品はすぐれているが、たとえばわたしのような凡百の作家見習いの文章の価値は、どうみても下だ。これはどうしようもない、ように見える。しかし、あくまで目的、目標は明確でない。

「作品」とは、行き先の書かれていない切符の総称だ。

言葉に、上も下もない。その前提から始めてはどうなのだろうか。カフカの「人間はどうして、血の入ったただの袋ではないのだろう」という言葉は美しい。少なくとも、わたしはそう思う。しかしそれはそれだ。わたしの胸のうちに、しまっておくべき「秘め事」なのかもしれない。あるいは友達にそっと勧めてみる楽しみを与えてくれるなにがしか、かもしれない。「あの女の腹は美しい」という感想と、なんのかわりもない。

優れた言葉と、くだらない言葉。場合によっては汚らわしい言葉。好きな人の口にした美しい言葉、というのもおもはゆいけれど。

以上、とりとめのないはなし。