いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■自由が好き?

先日コメントをくれたid:k-michiさんによる『自由を考える』の書評は、今日の自分たちがなんとなく感じている倦怠感とゆるやかな「憤り」について考えさせてくれるhttp://d.hatena.ne.jp/k-michi/20040214。以下、こちらからのコメントです。

様々な時代的危機感を、人文系のフィルターをとおして分析していく彼らの手さばきそのものも、サブカルチャーと同じように娯楽化されているように感じる。僕自身、そのように楽しむことを目的としてるのだ。恐らく著者達自身も一方でそこのとに自覚的なんだと思う

なるほど。『自由』は読んでいませんが、このあたりはよく理解できる、ような気がします。権力論を語るだけの教養がわたしにないのが残念ですが、後藤明生の作品によく出てくる「笑う」-「笑われる」的な連鎖を思い出しました。誰かを笑うものが誰かに笑われているという関係です。あるいは「下から上へ、下から上へと隷属するしくみ」(畑中葉子、ではなくてカフカの科白だったでしょうか)。ただし、そのあとの《もはやどんな言論もその他のシュミラークル・娯楽と変わらない影響力しか持ち得ない》にはまったく同意できないのです。なんでだろう、と自分でも思いますが。「影響力」というもの自体を、わたしが身の程をわきまえずにバカにしているせいかもしれません。また、「もはやどんな言論も」というメタ言説が、少なくとも自分にはそぐわない気がするのです。「もはやどんな言論も」「もはやどんな言論も」「もはやどんな言論も」。ひょっとすると、わたしはシミュラクルという言葉の意味を取り違えているのかもしれませんが。

ならばどうなるのか。それが重要です。「もはやどんな言論も」と言うことのできない自分、そして、ひょっとするとほんとうに「もはやどんな言論もその他のシュミラークル・娯楽と変わらない影響力しか持ち得ない」のかもしれないなぁという漠然とした、まるで万里の長城のむこうからの伝聞のようなある感覚との齟齬感が、非常に力強く脈打っているこの肉体が、いったいどうなるのか。こういう状態もいわゆるダブルバインドというのでしょうか。たとえで言うと、路駐した誰かの車のすぐ後ろに縦列駐車したすぐあと、なにものかが、ピッタリ後ろから縦列駐車をして、音もなくドアを開け、閉め、足早に立ち去っていってしまった、という状態です。

「なぜ、俺の車はいま、前にも後ろにも動けなくなっているのだろう……」

このバカバカしさ。吐き気。なにも生み出すことのない、ル・サンチマンの窒息状態。そして、サイドブレーキにかけた手の上で、カーナビの液晶にDVDの映像が流れ出す……。

「もう誰も戻ってこないよ。邪魔者は帰ってこないんだ。いつまでもいつまでも仲よく縦に並んだ3台のカラフルな自動車たち。さぁ楽しもう! この状況を楽しもう! 楽しく! 楽しく!」

あぁ、うるせぇよ。吐き気……当然のように、ドアも窓も開かない……密室状態でゲロ……。

……最悪な妄想が始まってしまったのでこれくらいに。