いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■枯木灘 インチキと真実の間

枯木灘

ぜんそくの発作がもう10日も続いている。マジで死ぬよ。
中上健次枯木灘ISBN:4309400027 を通読。なにをいまさら・・・という感じだが、まぁそんなもんだ。

とにかく繰り返しが多い、という印象が強く残った。蝉の声、と出てくると「あぁ、霊の修験者みたいな声ね・・・」みたいに、比喩まで繰り返しというのがすごい。『岬』に比べて読みにくい感触があるのは、この執拗なまでの繰り返しのせいだという気がする。

読みにくいが、わかりやすい。

わたしは頭が悪いせいか、小説を読んでいる最中によく「筋」がわからなくなるが、枯木灘の場合、筋(というほどのストーリーがあるわけではないから、単に設定、ということかもしれないが)は、非常に覚えやすい。読者は浜村龍造に対する秋幸の気持ちに、言われなくてもわかってるって、というくらいまで習熟する。

柄谷行人によれば、それは「フーガのような」ということになる。たしかに。柄谷の読みは、その繰り返しが、関係の反復、そして「反復の自覚」へと広がっていく、ということなのだろうが。

わたしが見事だな、と思ったひとつの点は、浜村孫一の伝説の扱い方だ。その伝説は、いかにも胡散臭い話として登場しながら、徐々に神話的な影響を秋幸たちに及ぼす。しかし(ここが大事なところだが)神聖化しない。この伝説が、インチキと真実の間で、生き生きと往復するように書かれている。それはまるで、世界の中で、寓話と戯言の間で往復するしかない小説そのもののように見える。

あぁ、つらい。