いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■二葉亭四迷の言うこと

広告批評阿部和重氏と高橋源一郎氏の対談。たがいの作品を読んで互いに感激したと告白しあうという、なんとも気持ちの悪い対談になっているのがおかしい。というか・・・『シンセミア』読まずにこの対談だけを読むのは無謀だったかもしれない。

高橋 (前略)どんな言葉でもだいたい行き詰ると口語に戻るのが原則なんですよ。ただ中上健次は、どんな口語に行けばいいのかというところで終わってしまったんだね。
 僕もその後よく口語を使ったりしたんだけど、どうも上手くいかないんです。口語を使うと小説の構造が弱くなるのね。『日本文学盛衰史』が精一杯で、あれ以上、自由に使う言葉を使うと、構造も何も無くなってしまう。
 で、僕、阿部君の『シンセミア』を読んで本当にショックだったのは、あれはどういう書き方をしてるかというと、当人じゃないのに言うのは妙なんですが(笑)、基本的な枠組みは近代小説であり、歴史小説なんですね……(中略)……全体は歴史小説のまま、オセロで白黒反転するみたいに、構造自体が奇妙な口語小説になってしまう。一種のトリックというか、これは素晴らしい発明だと思ったんです

 高橋氏の『シンセミア』に対するこの評価は、朝日の書評に対応する内容だ。http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=4674
 対談のほうは、2人ともいわゆる「美文派」ではない、という確認にいたる。

高橋 言葉を信じていると、言葉に頼るわけですね。だから言葉が出てこなくなるとおしまいなんですけど、僕たちは”ある世界”がまずある。自分が必要としてるイメージが先にあると言うか、こういう世界があったらいいなでもいいんだけど。じゃあ、その感覚をどう再現するのか。


 この部分はおもしろい。高橋氏は以前、村上龍の「内容が(小説の)言葉を生むのではない。言葉が、内容をつくるのだ」という立場を支持していた。つまり(正確にというわけではないが)、上記の発言の反対である。ここに、仲俣暁生氏ではないが、一種の「転向」があったと言えば、言いすぎだろうか。
 高橋氏は『さようなら、ギャングたち』を書き上げた当初、現代詩から援用した「言葉の新しい組み合わせ」が、「新しい内容」を生み出すと考えていた。しかし「言葉の新しい組み合わせ」に行き詰まり(というのも、言葉と言葉の接続や、言葉遣いのバリエーションには限りがあるから)、苦しみながら、「言葉の新しい組み合わせ」から「小説的な構造の組み換え」に表現の重点を移すことで、なんとか、”よくできた現代小説”として『ゴーストバスターズ』を仕上げる。以降、『官能小説家』まで、「言葉の新しい組み合わせ」としては後退しながら、「小説的な構造の組み換え」に活路を見出した……。
 これって、「書こうと思えばけっこう書けてしまう」状態と違うの? という疑問にもつながる。

二葉亭四迷が言文一致体を作って、みんな喜んで小説を書き始めたけど、作った二葉亭四迷は、「あんな言葉では大した小説は書けない」と言って辞めてしまった。だけど、二葉亭四迷の言うことを取り上げたらみんな書けなくなっちゃうから、みんなでなかったことにしたんです。だから文学史には、「二葉亭四迷は勝手に辞めた」と書いてある


・・・あんまり引用しすぎると広告批評に怒られそうなので、このへんでやめます。

「言葉の新しい組み合わせ」と「小説的な構造の組み換え」とは本来、同時に行うべきではなかったか−−それがヒントだろう。

・・・なんかゆるい結論になっちまった。