いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

書物はあだ花で終わるのか

北朝鮮のミサイルは、だいじょうぶだったのだろうか?
「だいじょうぶ」というのがなにを指すのかは……よくわからないが。太陽政策を継承する盧武鉉氏が大統領に就任ということで、北朝鮮は、ある意味、安心して挑発を行って援助を引き出そうというのだろうか。首脳部と軍部との関係修復のため、などということも考えられる。北朝鮮の内政が、いまどうなっているのかわからないのでなんともいえないが。


唐突だが、ixionという人のサイト『渦中の孤児』http://members.tripod.co.jp/Ixion/を見ると、たまたまだが、ホロコーストの文学について言及があった。なにか縁があるのだろう。ホロコーストと、それから書物について考えてみた。


インターネットの普及などということもあって、書物の存在意義はかなり疑われているといっていい。ホロコーストの悲惨な歴史を伝える碑として、書物を捉えることは、さすがに難しい。写真入りのノンフィクション風の書籍にいたっては、「信じられない恐怖の写真映像を完全収録」などと、ご丁寧なキャッチまでつけてある。とりあえずペイできなければ話にならないという出版社の気持ちもよくわかるが、それにしても、因果な世界に生まれてきたものだ、という気にもなる。


先日も触れたプリーモ・レーヴィは、被害者としてホロコーストがいかなるものか証言することを自らに禁じた。それは彼が自身を被害者でなく、あくまで生存者、逃亡者だと位置づけたからだろう。ならば、なぜ、彼はアウシュビッツを書き続けたのか。またそればかりではなく、なぜ書物を残したのか−−それは、ホロコーストが存在したことを語る言葉を自らに禁じたのと引き換えに、ホロコーストがかつて存在したことを開かれた書物のページの上に実在させる、つまりホロコーストを書物の中でミイラのように生きながらえさせるためだったのではないか。「疑うのなら、これを見てくれ」というわけだ。


狂気の沙汰である。言語の本性である虚構性(「犬」という言葉はそれ自身が犬でないこと、つまり犬の不在を語る)、あるいは物語(=約束事の絡み合いとしての構造)を沈黙によって停止させ、降霊の儀式のようにしてオブジェを存在させること。それは、話者の視点の確実さが保障されていた近代以前の「証言の言説」(本当らしさを信じさせる言葉)とはまったく異なる言葉のありようだ。書物の実在性を端緒として現前された幻想=霊体こそが、超幻想として、書物の実在性を凌駕すると夢見ること。


書物をめぐるこの、どんな神も精霊も救いを保証してくれない不可能な魔術が、ixion氏がいうところの"植物的沈潜"と呼べるかどうかは定かでない。しかし書くものは、不可避的にこの魔術に手を染める(わたしは母を本気でよみがえらそうとし続けるだろう)。これが、「語らないことを語る」というスタイルの、ある種の究極形なのではないか。<<ひとりの男が家に住みかれは蛇たちと戯れるかれは書く>(パウル・ツェラン『死のフーガ』)
ここで書くのは、詩人ではない。ユダヤ人に墓を掘らせるドイツ人なのだ。言うまでもないことだが、「植物」の口は、あらかじめ封じられているのである(ツェランの場合、それは石の花とでもいうべき、結晶化した植物かもしれない)。


生成としての文学を生きること、物語の構造という人あしらいのよい場から離れること、あるいは「描写」は、植物同士の関係に似ていなくもない。それは対象といわず主観といわず、互いに離れているということ。近づきようもなく、言葉を伝え合うことも、もう二度と会うこともできない、ということ。そして、それでも他者を求めること。届くことのないラブレター、とのたとえは、ナイーブに過ぎるだろうが。


ホロコーストによってまさに失われようとしている命、魂にまで見捨てられようとしている孤独な身体は、書物の上に、罌粟の花を咲かせ続けているのかもしれない。それを見る見ないは、自分次第だ。