いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

地獄は、ほんとうにすぐそこに

03/02/23(日)曇り
●創作(『紙の束』)コーナーに、『にしのはて』という童話?みたいな物語を追加しました。

最近の川口外相のしていること、といえば、まぁ、いろいろお忙しいのだろうけれど、印象的なのは、ODA(いわゆる"援助"ですね)先へ米国への支持をとりつけに回っていることだ。「親分の味方にならないと、おまえんとこの分け前がなくなるど……」といった図式になる。醜すぎる!……確かに醜いが、小泉周辺の偽らざる心境は、とにかく、戦争にならなければよいのに、という祈りと嘆きの中間かもしれない。米軍はすでに20万の兵隊を配置している。手ぶらで帰ってきました、というパターンは、相当に考えづらいのではないか。

パウエルが日本に来て、日本の支持に謝意を表した(パウエル自身が言ったわけではないが)というが、小泉にとってはありがた迷惑といったところかもしれない。朝日新聞の写真でも、彼は微妙にのけぞっているように見えた。国内の世論が、「反戦」に傾いていることは、さすがの彼も肌で感じているはずだ。

米国がイラクに求めているのは、査察受け入れを定めた安保理決議の遵守ということになるが、「自分のことを棚に上げて」といわれても仕方ない面がある。安保理決議を踏みにじり続けるイスラエルを支持し、自らも、ブッシュ(父)の時代に行ったパナマ侵攻に関して国連決議を真っ向から踏みにじるなど、ならず者ぶりでは、イラクに決して勝るとも劣らない。

エスは「汝、天を指して誓うな、なぜなら天は神の御座であるから」と述べたと言い伝えられているが、イスラム教には、これと類する思想はないのだろうか。できない約束をすると、往々にして自分を追い込んでしまうものだと思う。とはいえ、約束しないわけにはいかないのだけれども。

一方、欧州の反戦運動の盛り上がりも、かなり異常だ。戦争開始以前にこれほどの規模で運動がもちあがったことはないそうだけれども、これほどの反発は、米国にとってもかなりショックだったのではないかと想像できる。これまで慎重に進められてきた「脱米・欧州統合」の動きが、いま一気に加速している。とくに、フランスと組むことになったドイツの外交的な変容というか成長は、日本人からするとまぶしいばかりだ。日本が、米国の支配から独立して中国・韓国と同盟を組んでいる姿など、いまだに想像できない。隣近所とうまくやっていこうという努力(政府だけでなく個々人の)が、足りなかったのだ。いまからでも遅くはない。近くにいる中国人や韓国人と仲良くすることからはじめたほうがよさそうだ。

こうした一連の「危機」に関するマスメディアの報じ方は、ある意味巧妙だ。新聞の場合、1面は、"事実報道"と称して、公式発表、つまり、読者をコントロールしようとする者たちが発する胡散臭い情報を掲載して御用報道を行い、2面の社説以降で、感情的な反戦論を展開して、読者の支持をとりつける、という作戦だ。そしてまた、「戦争」というものは、いくら叩いても広告クライアントに直接の不利益が降りかからない分、メディアにとって叩きやすい対象なのだ。この構図もまた、醜い。

「米国からの独立」を謳う若い政治かも出てきているようだが、これは無責任といわれても仕方がないだろう。なんの準備もせずにこれまで「世話になってきた」米国に背を向けることなど、できるはずがない。第一、軍備はどうする? という話にどうしてもなってしまう。憲法、変えましょうか、といった具合に。

……いろいろと勝手なことを述べ立てながら、こんなふうに無責任にものを言う自由がどのくらいもろいものなのかも、意識しないわけにはいかない。ありふれた暴力によって、こうした自由が奪われるか、あるいはみずから放棄してしまうという危険は、つねに潜んでいるし、また、漠然とそれが近づいているのかもしれない、と思う。ここ最近、やりきれない気分というものが否定しがたく自分の中に漂っているようだ。

ナチス強制収容所から生還した詩人のプリーモ・レーヴィは、<<人間がアウシュビッツを建てたのだから、人間であることは罪である。アウシュビッツを建てたドイツ人が有罪であるならば、ドイツ人と同じく人間である自分も有罪である>>
と語っていたそうだ。この思想の苦渋と重苦しさは相当なものだが、それほど、「ふつうの人間」と「罪」との距離は近しいものだということだろう。地獄は、ほんとうにすぐそこにあるのかもしれない。